魂(たま)合気研究会

 

十、魄から魂へ

武産合気には白光真宏会の五井師の「合気道と宗教」という一文が次のように載っています「植芝師のご本から得た私の感じでは、合気道という武道の一種と見られる道は、空を行ずる事が根幹であり、そこから生まれる自由無碍の動きであり、大調和、愛気の働きである、と思ったのです。空を行ずるという言葉を言いかえれば、自我の想念を無くするという事であります。」(武12)ご本を読まれただけで、合気の真髄を的確に表現されていて、合気の道は正にこれであると教えられました。
さらに、次のように続いています「植芝翁の言葉をそのままお伝えすると、合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はこのことを武を通じて悟った」(武13)と書かれていました。
合気はそれに通じるような素晴らしさを体感できるものであり、他の稽古事とは異質の楽しさであろうと思います。
「人はみな生まれる前に目的を決めてくるが、生まれるとそれを忘れてしまう」と聞きます。芸術家になる。スポーツ選手になる。教育者になる。政治家になる。それらは表の目的であり、生きていく方法であり、生きている心の支えです。しかし裏の目的は、この日の本に生まれた人には、霊(ひ)の元を知る目的があるはずです。それは国旗で示されています。
植芝師は「技というのは直日の目的のための手段にしか過ぎない」と語っておられます。直日とは何かというと、人が神から授かっているところの、業(ごう)によって汚される以前の魂に帰ることですが、霊の元と同じ意味合いです。そのために禊があるのですが合気は禊であると繰り返し語っておられます。「合気は神のたてたる神の道であって、人間の作ったものでない。人を本様に作る目的、真の人をこしらえる目的をもって、合気を下されました」(武159)とあります。
本様とは、身体を土台として、魂思意(タマシイ)を働かせることです。「魄の中に神が入り、魄を育て魄は魂を守るのです。他に神があるのではなく、生まれながらに天から授かっているのです。魄をもったことは天からの使命を持たされたことなのです。魄を育て上げるだけの能力を持たされているのです」(武97)
これらのことを赤玉白玉には「は肉体、これに天(点)・を入れるぞ、に・が入ること。高天原から天降るとは、の真中に・を入れること」とあります。真中のよみがえり、これによって、我々一人一人が、神の分け御魂を戴いていると知ることになります。しかしこの物質界で生きて動く限り、塵芥のでるごとく、罪穢れが出てくるのも当然であり、人が汚れを水で洗い清めるように、心もまた洗い清めるようにと禊を高御祖より授かりました。合気は禊でもあるのです。  完。(平成十六年十二月吉日記す)