魂(たま)合気研究会

 

三、魄の合気

木村辰雄著「透明な力」(大東流合気宗範、佐川幸義師伝及び語録)を読んで思った事は、魄の合気の究極であり、故に植芝師とは全く異なる合気で頂点に立たれた方と思いました。
植芝師は「今までのものは魄の時代であり」(合159)「今の時代になって、神示によってはじめて現れたのが武産合気である」(武156)と語っていますから、植芝師の恩師でもある武田惣角師から佐川幸義師へと受け継がれた大東流合気柔術は魄の合気であろうと思います。
これはあくまでも本の上での感想だと思って戴きたいのですが「透明な力」には「合気の原理は実に細かいものだ、若し聞いたらみんなびっくりしてしまうよ。植芝盛平はわからなかったのであんな風にして教えたのだね。
しかし合気は武田先生しか出来ないと思っていたのだろう」「いくら精神力とか気の流れとかいったって、そんなもので自分よりはるかに大きい者を倒すことは出来ない」等とあります。
木村辰雄師も「佐川先生の言われる無力化する技術と、植芝師のこれらのこととは本質的に異なるもの」と書いております。
このように両者の合気には異なった観点があることから植芝師の合気を「あんな風にして教えたのだね」と言ったのでしょう。
多くの人は合気をまだまだスポーツ的な稽古と捉えているように思います。
他に捉え方があろうとは思いもしないからだと思います。
ではスポーツ的とは何でしょうか。「スポーツも魄である。スポーツでは日本は充分ではない。魄力だからである。魄力でやってゆく国は、最後はうまくゆかない。魂の力をもって、自分を整え、日本を整え、神を表にだして神代を整え祭政一致の本義に則ることである。
合気は禊であり、神のなさる世直しの姿である。
魄力が強いということは(世の剣聖といわれる人も魄力は強かったが)それでは戦争がいつまでたっても無くならないということである」(武165)。
スポーツは魄ゆえに競い合い、ぶつかり合います。しかし合気は力でぶつかりません。
スポーツの競技では相手を倒そうと力を入れますが、合気は力に頼りません。倒そうという思いが出ると合気は利きません。
合気は相手を大切に思う気持ちが大切です。大切に思うことによって彼我の垣根が無くなって相手ともつながります。
合気の技は相手とのつながりがとても重要です。
そこから始まって、周りと一体にななっていく。それによって自我を超えた技が働くようになる、そう理解しています。
仏教で空という言葉がありますが、空とは、自分と周りとの境を無くして、空(宇宙)と一体になった状態を言います。
合気の究極もこのような空の状態にあると思います。このようなことから、身体を究極まで鍛え上げ、技を磨くスポーツの常識からは外れたところにあるのです。