赤玉白玉

 

続・日月神示

はじめに

この度は今年に入りまして降りた神示(平成12年1月9日〜平成12年7月31日)を小冊子という形にまとめあげました。
このように神示が降りるということは始めから神界では決まっていたことであり、神の経綸の中に組み込まれていたことでもあります。
この神示は神との約束から降ろされたものです。神は時代時代に応じてその都度、人類に必要なメッセージを様々な形を通して伝えています。この神示もその一つと言えるでしょう。
神示は現在も降りています。この神示は日月神示の続編という形をとりました。
日月神示は昭和19年より降りた神示で、過去のものと考えている人もいますが、これは神界を時間という概念で当てはめているからです。同様に古事記も「今」ここに存在しています。
古事記と日月神示とは深い関わりがあり、古事記の中にも神界の仕組みが隠されています。
現在世界で起こっている出来事や、身の回りの出来事もすべて神の経綸の中にあります。
来年は21世紀の幕開けの年でもあります。21世紀は古い概念を捨て去り(日月神示では「江戸の仕組」などで表現されています)新しい概念を受け入れることによって素晴らしい世紀を迎えることになります。
一方、依然として古い概念に固守している人にとっては、時代の波に呑まれていくことになるでしょう。時代という外の世界と頭の中の時代は異なるからです。
新しい時代を迎えるにあたり、この神示に縁ある方々が、自らの歩みの中で内なる神性に目覚める切っ掛けとなりますように。また一人一人が日月地の神成る身として出産に向かい、この神示が皆様の足場の礎となりますように願っております。
 平成12年9月吉日 伝:内山真月

神示

昨年にて富士の仕組は終り、鳴門の仕組に入るぞ、琵琶湖は鳴門の仕組の型示しでるぞ。
心してかかれ。鳴門とは渦海(渦のマーク)のことじゃ。
渦海にて大きく動くぞ。この現象界では、大切な御用なれど、渦に呑まれてしまうなよ。
鳴門の仕組とはこの現象界を動かす原動力となるぞ。その始めが琵琶湖からじゃ。
富士と鳴門は、二つでひとつじゃ。先ず富士がありて鳴門が動くぞ。
この仕組によりて普段、目にしなかったことが、目につくようになるぞ。
腹が坐っておらぬと右往左往するぞ。心してかかれよ。神が始めに導き、人が後に付いてまいるぞ。
この仕組は、神人ともに働く大きな意味での型示しであるぞ。
琵琶湖は様々な意味合いあるなれど、この働きは神でないと分からん。人は後になって分かる仕組なれば、神が良きように使って見せるぞ。
水は流れる如しというように高きから低きに流れるぞ。また逆もあるぞ。水の流れる如く心を流してはならんなり。
真中(まなか)大切じゃなあ。真中が神じゃ。真中がわからないと水の如く流れるぞ。
富士の仕組は真中出しじゃ。真中が出て始めて渦芽が動くぞ。猿田彦殿と、天之宇豆女殿であるぞ。
心してかかれよ。この仕組言うてはならんし。言わねばならん。神と人も同じであるぞ。
平成の御世はここに来たりて、始めて日の目を見るぞ。恵比寿・大黒の働きじゃなあ。
神が表に出ると言うても直接には分からん。言葉でとるよりも心でとりてくだされよ。心は九九路じゃ。九九理(ククリ)の道じゃ。竹で表しておるぞ。一つの大きな節目でもあるぞ。ココロしてとりて下されよ。 (平成12年1月9日)

     真中(まなか)とは三種の神器で言うところの勾玉に当たり、他の言葉で言えば「中心の光」とか「聖なる光」とか呼ばれているものである。これにより我々一人ひとりが神の分け御魂をもらっていることでもあり、一人ひとりが神の分け御魂をもらっていることでもあり、一人ひとりが神であることの証でもある。一二三でいうところの「二」の座を指す。それに対して「一」と「三」は相対の働きを意味する。絶対と相対の違いでもある。

神が表に現れるぞ。神が表に現れるぞ。よいか、覚悟をしておけ。神が表に現れたらどうなるのかとくと見ておけ。神の力を見せてやるときがきた。神人共にあらわれてこの世の立て替え建て直しをいたすぞよ。この神の力をとくと見ておけ。世の中ぐらんと引っ繰り返るぞ。この神の力でないと何もできん。
今までの神の力とはケタ違いの大きさであるぞよ。よいか、覚悟をしておけ。神の力の神の力を見せてやる時がきた。 (平成12年1月13日)

大神の 大御ハタラキに 感謝して 明けて日の出の 光となれよ (1月21日)

感謝が感謝を産む。これが世界平和の意乗り。価値観が一八十閉めの元となっている。
赤玉は愛、白玉は力である。ようよう九九(ここ)までたどり着いた。長い旅であった。
全てが蘇る。力は力として、愛は愛としてその本来の姿を輝きだす。全てはこの中にあり、それが現実界の中で動いているのである。

現象も必然、必然であると分かるとそこに、価値判断、二元の価値判断が無くなってくる。
恐怖と安心が力と愛によみ返り、本来の姿に戻ってくる。ここにおいて本来持っている力が発揮されることとなる。○○○も本来の姿に戻りその力を十全に発揮する。これが全てがよみ返る元である。
キリストもこれによって自らがよみ返る。キリストの復活とはこのことであり外にも型として出した。
自分が自分としてよみ返るのと同じである。ただ、今の中にいれば良い。
すべて四(次元)で作られしものがこの三(次元)に変っているのである。
四次元で作られしものが明らかになることが(四三)返りでもある。
また三次元で出たものがそれで価値判断を作って又、四次元に返っていく。すなわち価値判断が千引の岩戸でもある。
このようにして全てが相互関係で動いているのであり、これもカルマという。このカルマ(法則)は誰が作ったものでもない。自らが作ったものである。この法則を使って神が神であることを体験していくのである。
神が神を産んでさらに新しい神を創り出す。この様にして創造は無限に続くのである。神が神としての力を無限に発揮する為にはこの法則=二十○二(フトマニ)を使うのである。
このようにして無限に続く創造は愛と力によって裏打ちされている。この愛と力とは法則という動き、働きを使って、また自らが創造に加わるのである。
この様にして全てが大いなる循環の中で動いており、それも自らが自らを産んで行く創造の過程となる。創造が創造を産み、更に又、その創造を産んでいく。これも神が神たらしめる力である。
神がこの肉体を使って明らかにするのは初めてではない。神は常にそうであったし、そうであるし、そうであり続ける。今の中に全てがあり、それ以外には無い。神が表に現れるということはこのことを指す。これは誰でもそうであり、本来の姿である。左に隠しておいたのは、神であり、神が外にあるのではなく、全てこの肉体に隠れているのである。神が見たいのなら自分の左をみよ。これが隠してある神である。隠してあるというのは一番身近に隠しているのであり、外にさがしても無い。神が表に出ること、右、すなわち三次元世界が又、よみ返るのである。
全てが一番近い所に隠してあるのが見えないか。これが見えないと神は見えない明きめくらぞ。
この様なものは昔から神界の仕組の中で仕組まれておる。よみ返ってきたか。力が力としてよみ返り、愛が愛としてよみ返らなければ本当の力と愛とはならない。この者を使って神が神としてよみ返り、表に現れている。神の力と愛とは、一人ひとりの内にひそんでいる、蛇が龍に変るぞ。一人一人の神はこの様にして肉体を使って現れるようになっている。少しはよみ返ったか。
神仕組は、外にあるものではなく、全て己が内にある。己は巳(蛇)であり、力の元となっておるぞ。この力を使うことにより、巳(み)が龍となるのであるぞ。全ての源がここにある。
蛇を封印したのはそなた達であるぞ。これが蛇が龍となり、全てがよみ返ってくる。
神が神として解き放たれる時であるぞ。神の仕組は仕組として受け取れ。素直が一等だぞ。
素直にまさる力はない。これにより愛が生まれるぞ。力は源と申したであろう。男は力の象徴としてある。女は愛の象徴としてある。歌が産田としてよみ返る。神(田)産む力である。
神が神としてよみ返るこれ程嬉しいことはない。神が待ち望んだことである。
出産の喜び。女でしか分からないであろう。男は力と申してあるが女は全てを産みだす元である。
愛が根底に流れているぞ。光、全てを産み出されて光が聖なる光となってこの地にふりそそぐ。
光が光として本来の力を発揮する光であるぞ。神がよみ返る。音と光となって。全てがよみ返る。
神が神としての誕生である。神が神としてよみ返らなければ、神としての力が発揮しない。
岩戸閉めは自分であるぞ。全ては自分の中にある。何を選択しても良いというのは違う。全ては初めから決まっておる。神が神としてよみ返ると全てが分かる。
形が形として留まらなくなるのは、よみ返る力が無いからだ。神が神としてよみ返るのはかくの如くである。
全て神が神としてのよみ返り=誕生を待ち望んでおる。全てが仕組の中であり、この仕組から出ることは出来ない。歌は祝いの産田(ウタ)じゃ。出産祝いの産田だ。分かりたか。大いなる御力はこれじゃ。

左は月読命が日を受けて、日月の神としてお出ましであるぞ。出産はかくの如く痛みを伴うものである。日月の神がこの地にお出ましとなり、日月地の神として働くぞ。この者の肉体を使って全てを型でみせるぞ。神喜びがどんなものかとくと見るが良い。
出産の喜びは女に与えてある。片方の働きであるぞ。男は添う力であるぞ。これで一つじゃ。
女が男になろうとしてもなれぬ。男が女になろうとしてもなれぬ。全ては神仕組の内にあり、伝えおくぞ。全てが神としてのよみ返りの道具であり、道具が働くゆえんだ。
左に全てが隠してある。片親がないというのは型示しじゃ。両親があって子供はすくすく育つ。子供は親の喜びであるぞ。岩戸の外に出ると、神と神・人の関係もそうであることが分かるぞ。天津国津というのは仮型の呼び名であるぞ。本来はヒツグとミツグである。ヒ(火)とミ(水)で神じゃ(4月29日)


京都伏見の御香宮で水を頂く。「元ツ御親の真姿がここにある」とのこと。この水の中に全てがよみ返る力がある。元つ御親の中にあって全てがよみ返る。この水によって、神が神としてよみ返り、全てがよみ返る元がある。これが元ツマコトの真姿であり、これ以外にはない。
これにより全てがよみ返る元となるのである。神が神として蘇る、これ程嬉しいことはない。
全てが蘇る元となる。物は物として蘇り、光は光として蘇るのである。蘇生とはかくの如くであり、元つ御親の力によらねば蘇ることはない。
人間の手で何が出来たか考えてみるがよい。全てあべこべ、頭が引っ繰り返っているであろう。これが型示し。
元のキを受けて蘇るのである。全てに感謝をささげねば力が力としてよみ返らないのであるぞ。愛が愛としてよみ返らないのであるぞ。分かりたか。
水は万物の源という。この源より発したエネルギーは全てのよみ返りの元となり、それが又、全ての創造の中にあって循環していく。これが本来の姿であり、又、源でもある。
言葉が言葉としてよみ返り、蘇生していくのである。蘇生した言葉はさらに新しく生まれ変り、本来の姿に戻っていく。これも循環の一つであるぞ。神が神として蘇らなければこの力は発揮せん。
新たな創造の過程として生まれ変わった言葉は、言霊として鳴り響き、この宇宙に十満する。これが言霊の威力であるぞ。
数霊も同様であるぞ。大いなる御力に裏打ちされたものでなければ、その威力が発揮せん。全てがそうであるから神が神としての働きを十全に全うする源が九九にある。 (4月30日)

ヒツグは愛、赤玉に象徴されるぞ。ミツグは力、白玉に象徴されるぞ。愛が縦で力は横に働くぞ。赤玉と白玉、これが龍宮の乙姫様が持っている本来の姿じゃ。本来の姿に戻らなければその力は発揮せん。
これが蘇らなければその力は発揮せん道理分かるであろう。
愛に力が添わなければ愛は滅びる。力も同様ぞ。大いなる御力はこれが統合された姿である。
それが大いなる愛、大愛に象徴されるぞ。それに大いなる御力が添い、これが無限に続くぞ。一八十の外に出れば分かる。今はただ九の力を受け取ればよい。元ッ御親の姿が写るぞ。(5月1日)

一四一四(イヨイヨ)富士と鳴門の仕組が終ったら、甲斐の仕組に入るぞ。甲斐の仕組に入りたらもの言えん様になるぞ。これはどうしたことかとビックリ箱が開くのぞ。この蓋を開けることが尾張の仕組ぞ。分からなければこの方に聞け。みな教えてやるぞ。
自分が自分がと思うているうちは岩戸は開けん。素直が一等ざぞ。よく聞けよ。この神でないと何も分からん。人間の算盤で何ができたか。みな出来損ないばかり。
九分九厘で引っ繰り返るぞ。全てこの神がさせていること、よく肝に命じておけ。
甲斐の仕組に入りたら、人との繋がり大事にしておけ。人と人分けるのは岩戸閉める元となっているぞ。この仕組、今年中にけりをつけるぞ。それが済みたら夜が明けるぞ。岩戸開きの幕開けじゃ。この仕組、実地に入りたら口開いてポカンじゃ。肚座ってないと気の毒ぞ。外が外がの方向、内が内がじゃ。高天原に神鎮まりますじゃ。分かりたか。
(5月8日)日月の神

昭和とは「照り輝き和合する」意味がある。で誰と誰かといえば、玉依比売と鵜葦草葦不合命である。ここにおいてナミ神去られし時以来の和合の時を迎えたのである。
今までの天津神と国津神との対立(二元対立)から、火と水の和合(真十字)がなされるのである。
これを「ミト(三十)のマグアイ」という。この時代を経て、神武天皇(スメラ命)となり、平成(一八十、イワト成る)時を迎えたのである。
これをミロク世(三六四)と称するのである。時代時代の意味合いが我々一人一人の中に示されるのであり、外に型として示されている。三六四とは外にあるものではなく、今九九にあり。火と水の和合の結果が三六四となる。これにより新たな幕開けといたす。和合とは、かくの如くなされるものであり、内なる神が表に現れ出て治め和合することによって、神・人となるのである。これがすなわち一八十開きであり、平成の御世になりてこの仕組が完成するのである。
一人一人が内なる神に目覚め、この神が照り輝き、大いなる御力となって初めて、神が神としての力を発揮するのである。このことによりて、人が人としての役割を真に発揮することとなる。人が人がでなく、内なる神が内なる神がである。
外に向かっては、神がつかめん道理分かるであろう。以上のことから、この仕組は、神が神としての力を発揮するためには、どうしても必要な国造りの場であるから、この日(霊)の元の礎として、まず型で見せる必要がある。ブラジルという裏が日本という表に現れ出たのも必要があってであり、このことによって裏が表に現れる型示しといたした。これによって全てが蘇る元としたのは、出産における陣痛(神通)を伴うことによって神産みの喜びを体験せんが為の型示しでもある。
陣痛(神通)を恐がっていては神産みの喜びは体験せぬ。これが肚の九九理であり、覚悟が必要なことを指す。喜びは喜びとして味わえばよい。苦しみは苦しみとして味わえばよい。全ては体験がせん為の道具である。これにより、苦を楽に変える産土力(うぶすなりき)が生まれる。「苦は苦としてとれ」とは、苦は初めから無いものであるから、それを喜びに転換する力=産土力が必要となる。
苦を排除しょうとする力が苦を呼び込むのが分からんか。苦とは喜びに転換する道具である
(5月10日)

この昼なお暗い仮型の世において、月読命は仮の姿でこのよ(夜)を治めてきたのであるぞ。夜が支配する時代は終り、日の出の御世となるぞ。真中が出ないことにはいつまでたっても本来の力は発揮せん。真中でてこそ、さん然と光り輝く代が来るのであるぞ。夜明けとはこのことじゃ。火を隠した九十によりて自分が神であることを忘れてきたのであるぞ。否定が全てぞ。己の体を見よ。これがこの世が逆さまであることの型示しでもあるぞ。片働きは片働きの役割。全ては神の仕組の中にあり。全ては己が神に成るための道具であるぞ。
左、己が左を見よ。ここに全てが隠してある。全てが真中だしの道具じゃ。真中いつまで隠しておくつもりじゃ。自らが神産みの想を出せ。左は日の光を受けて月読の命が、日月の神としてお出ましになり、日月地の神として働いてまいるぞ。
覚悟はよいか。覚悟とは肚九九理のことじゃ。肚くくらいで高天原に神鎮まりますは無いぞ。「三千世界、一度に開く梅の花」とは、神の蘇りのことじゃ。よみ(黄泉)返るぞ。千引の岩戸のことじゃ。いつまでも隠しておれまいがな。四(次元)は、五、六、七と繋がっているぞ。四(よ)と三(み)の関係、少しは分かったか。 (5月13日)

二つの流れ。日の流れと月の流れ。二つが合わさり弥栄に栄える。日は日としての役割、月は月としての役割。二つ揃って一つの大いなる力となり、弥栄に栄える。
神、大いなる存在が存在として弥栄に栄える。神、そのものはそのものとしてではなく、弥栄に栄える産物としてある。創造が創造を産み、さらにその創造が創造を産んで行く。これが神が神としての弥栄なる存在である。人も然り。神・人となりて弥栄に栄える。創造が創造を産んで行く過程としてある。 
(5月14日)

否定する事は何もない。全ての原凶がここにある。蛇が隠れているとはこの九十。全ての原凶がここにある。
神を見よ、恐れる事は何もない。全ては自分の内にある。否定が否定を産み、さらにその否定が否定を産んでいく、このことが分からないか。神を見たければ否定を無くせ。ここが元ぞ。

神が神としての役割を果たすにはこの否定することをなくせ。ここが一等ぞ。神産みの喜びが味わいたいか。それなら九九に来い。全てを見せてやる。神が神としての役割がここにある。九九だ。他には無い。恐怖は恐怖として受け取れ。否定するな。否定するから否定が産まれる道理分からんか。ここに道がある。道が道として働くにはこの道しかない。外に向かってもだめだ。この道理分からんか。道に外れるとはこの九十だ。否定するから道に外れる。全ての全ての答えがここにある。
全てを許せ。神が許しておるのに、そなた達が許せんというのはおかしい。神は神としての働きが九九にある。全ての存在、神が神としてある証。次元が違うのが分からんか。今に生きるとはそうゆう九十。
神がこの肉体を使うというのは全てに委ねること。これが添う力じゃ。自分の力で何ができたか、皆神がさせていること気付かんか。神の力なくして何も動かん。神が肉体を使って現すことは外に山程ある。神の仕組、始めの仕組と終りの仕組。この道が分からんとなにをやってもだめだ。神の仕組は水ももらさん仕組。水とは全てに行き渡っているぞ。水を動かすのは
(元ッ神)の力。この水を使って神の働きを見せてやる。瑞の御魂。水の働きは瑞の御魂の担当。火は厳の御魂。火とは光じゃ。光なくてこの世は成り立たぬ。全てを産み出す元が九九にある。
火をなくしているのはそなた達。神はいつも与えっぱなし。神の働きとは与えっぱなしの九十。否定、奥底に潜んでおるぞ。形を変えて出ることに注意せよ。全ての元凶ぞ。蛇が潜んでいるとはこの九十。神の政治とは、人が選ぶのではない。全て神が使っているなれど、皆の間違いがここにある。人は神と共にあるのであり、全てを委ねなければ神は分からん。神を知りたければ全てを神に委ねよ。自力とは神に向かう力、その後は手放せ、すれば神が見えてくる。力・座王(蔵王)権現様のお出ましぞ。全ての力の象徴としてある。現界で働くにはこの力無くしてはありえない。摩界(マカイ)見たければ見よ。但し、否定するな。


神と共に歩むという宣言。神と共に歩みたいか、答えは己が内に用意されておる。時節とはそのふたを開ける九十、あせりは禁物。己が己がの隠れみのの内に何が入っているか、皆己から出た九十。外からの答えはない。ただ己に写ってくること。〇は鏡。何が写るのかは己しだい。言葉。解く為にある。言葉を使って解いていくのである。解いたら結べ。喜びに結べ。神はいつも鑑てているだけ、援助はする。要らぬお節介と申したであろう。結びの働きはそなた達の役割ぞ。
自立こそが魂の発展をうながす。外に頼るなとはかくの如く言うぞ。自立無くして魂の成長はありえない。魂が成長することによって出産となる。その、第一は自立からじゃ。神無くしてはならん。全てを神が使っていることが分からんから、己が出るのじゃ。己は巳であるぞ、昇龍となすには己を使うしかない。

宇宙の動行運行(絵が描かれた)


この神示、全ての源の神示ぞ。採るのもよし、採らぬのもよし。全てに任されておる。
神は常に与えっぱなし。時節が来れば分かる。神が肉体を使うと若返って来る。若返らんのは己からだ。表面だけ塗り固めてもすぐはがれ落ちるのは形示し。神が元ぞ。体は魂の成長に伴って若返って来る。
蛇霊のおもちゃになるのも皆己からじゃ。否定が呼び寄せていること分からんか。二元とは働きの九十。この働きによって全てが出来上がっているぞ。神示は神示として受け取れ。皆魂が記憶しておる。これを呼覚ますのは四三返ること、四三返れば全てが分かる。
日月の神のお出ましとなるぞ。日月の神がこの地で働くには日月地の神として働くぞ。皆々日月地の神じゃ。なれど時節があると申したではないか。己の掃除が澄まないと神かかれぬ。この者は神の因縁として使っておる。因縁の御魂はどこかしこに埋めてある。梅で開くのもかくの如く隠してあるぞ。全てを神が使っておるのも勘違いするな。神の道は二つ。

一つは白き道、ダイヤモンドの輝きに似せてあるぞ。ダイヤモンドは型示し。もう一つは黄金の道、これが因縁の御魂。
どちらを取ってもよいというのは違う。道は始めから決まっておる。だから白い道を歩めと申しておる。九九理姫様がお待ちかねぞ。白き道は万人に用意された道。道を歩めとは九九理の道。外にはない。他を捜してもムダ。神の道は無理は通らぬ。全て道理、分からんのは皆己からじゃ。

分からんならこの神に聞け、皆教えてやるぞ。外の神は神に似せて作ってある。全てこの神が仕組んだ九十。皆答えは全て自分の中に仕掛けておる。少しは四三返ってきたか。神が答えを用意するとはかくの如く言う。何をしても良いというのは、皆己の鑑に写る九十を言うぞ。写った九十に文句を言うな。

ただただ鑑に写った九十。全ての答えが九九にある。尻をふくとはこの九十。自分の尻を拭かないで他人の尻を拭こうとしてもムダ。順序が逆。逆さまの世と申してある。想念も自分ぞ、責任を取れ。神の尻拭い誰がする、誰も出来まいがな。せめて自分の尻位自分で拭け。神に尻拭いばかりさせておいてお陰ないと不平ばかり申しておる。神が聞いていないと思ったら大間違いぞ。全てこの仕組の中で動いておる。神の仕組。全てに委ねられた力。この力を使って神が神としての本来の力を発揮する。自分で産んだものが自分という力を使って四三返る。四三返らねば何も力を発揮することは出来ん。この肉体を使うのも意味がある。因縁という力を使って四三返るのじゃ。人それぞれに道がある。それぞれの道で歩め。神の後盾があるぞ。 (5月28日)

因縁の御魂、神からの選りすぐった御魂なれど、それだけ借銭多くしてある。このこと勘違いするな。借銭なくしては神の御用は務まらんなり。このことは八七(ハナ)から仕組んである。今のことではない。借銭多い御魂なれば神の御用が務まる。二十○二(フトマニ)を使って御用をさせておること肝に命じておけ。
変え御魂というのは、そこかしこに埋めてある御魂を掘り出すこと。掘り出して泥で汚れている御魂を黄金の光で満たせ。この御用、因縁の御魂でないとできん。神が使って掘り起こす役をさせる。瑞の御魂の役割じゃ。
神が使ってやるからその舟に乗れ。安心丸じゃ。神の舟、大安心。良き用に使うとはこの九十。神の舟、誰も乗りたかろう。なれど御用の筋が違う。大いなる舟は他にもある。神の御用とは、神が人を使って働くこと。御魂の掃除程度に使うて見せる。全て神の御用なれど、掃除の程度の九十じゃ。陰で働く守護神殿の身にもなってみよ。それはそれはのご苦労ぞ。陰働きの大切さ分かるか。この仕組動かすのに血へど吐いてもまだ足らんご苦労ぞ。これが陰働きの裏で支える力。スサナルの神様にお礼申せ。万分の一の苦労で終るぞよ。なれどお陰なしと申すな。借銭返さぬうちは、なかなかじゃ。それからが本領発揮、神とはこんなに有り難いことかと涙でるぞ。水の他楽き(ハタラキ)。喜びを渡す役。喜びとは魂の喜びぞ。肉体は後からついてまいる。魂の喜び一等ぞ。大いなる喜びにつながってまいる。肉体は後、順序大切と申してある。なれど肉体を無視するなよ。必ず肉体はついてまいる。喜びが先じゃ。苦労はせよ。なれど喜びで採りて下されよ。神は喜びしか渡してないぞ。

苦を喜びに換える力・産土力、これこそが人間が神に成る為に与えた力じゃ。下で支えてくだされよ。
お土とは、下で支える力ぞ。添う力ともいう。上から支えようとしてもムダ。武士は亡ぶ型示し。武は武力で力の象徴でありたが、逆さまの世の型示し。下で支えてこそ力が力として発揮されるぞ。
一八十の外に出てみると分かる。逆さまの世、様変りばかり、変化してばかり。神はどこへ行った。神無くして何も出来んと申してあるではないか。愛は火(日)の象徴、力は水(月)の象徴、これで日月の神じゃ。天の
?(神力)を発揮して?日月の神としてお出ましになり現す時がまいった。
神示の解釈は御魂相当の働きによる。掃除の程度と申しておる。取り違いを心配いたすな。全てお見透しぞ。全て神の手の中。どこにも出られん。
瑞の巻・厳は他から出るぞ。火は働きによって立つ。しっかりと支えるか。産土力が大切。水を使うとは、波動を使って水の働きを強化すること。九の力でなくては出来んなり。八(一八十)内では流れるばかりぞ。火も同様ぞ。薄暗いロウソクの光じゃ。神の光は万倍の光。火の働きが厳の御魂のお役なり。乙姫様の力ぞ。音秘め様じゃ。音は火の働き。音を使うとは、火ばかりではないぞ。全ての振動が隠されておる。火と水を組み組みて働く乙姫様とスサナル様の働きじゃ。どちらも自分。己が内に隠されておる。この結婚(魂)なくして九の道はない。結びは後でついてまいる。まず内なる結婚(魂)をせよ。形は後からじゃ。内なる形が外にも写るぞ。掃除がまず先。神の出産は、神としての本来の働きを発揮するにはどうしても必要な九十。片働きがどうゆうものか知らなければ、出産はできん。
一厘の仕組はそこかしこに仕組んである。どのフタを開けるのも自由なれど、フタの開け方は魂が知っている。白き道、肚九九理がまず先。一人一人の歩みの道。一筋の道。神でしかこの道は通れぬ。神無くして通ろうとしても出来ぬ。他は全て片働きの道。己の内なる神に聞け。答えは己が知っておる。外に聞くと違う答えが返ってくる。皆己の不安から出た答え。不安無くなれば聞いても聞かんでも同じ九十。
どちらでも良いというのはこの九十。答えは始めから決まっておる。全てに委ねる力。九の道を歩みたければ、九九に委ねよ。大いなる力が湧きあがって来る。神示、
?の神示、全ての源が九九にある。 
(5月29日)

 

昇華とは昇龍の働き。消化することと同じこと。昇華したら出せ、エネルギー変換、これが降龍の働き。火の働きは厳の御魂の働き。厳の御魂は己が内にあり。「火水」の者達も同じ九十、働きの種子(趣旨)が違うだけ。種の在り方の違い。どちらも同じ神界からの役割成れど、種子が違う。かくの如く他も同じである。まず火が立たない九十には、火とは片一方の働きであり、これが先に立たねば、水は添えぬ。火がたつことによって始めて水が添える。
水の世においては火がまず先に立つことによって、始めて水が添える。水の世においては、火がまず先に立つことが順序となる。今まで火を隠して来た訳がある。火を隠すことで一厘の仕組が働く。隠さなければ片働きの意味が分からないであろう。火の働きと水の働き、これこそが全てであり、基本中の基本。この役割をしっかりと縦分けることが真中出しの元となる。真中がでるということは、自分の中でしっかりと火が立つ九十、まず火を立てる九十、これが始めの役割りである。水ばかりの世の中では流れてしまう。いつも変化ばかり求めているであろう。
いつも変らぬ松の世とは、火の働きのことをいう。火は常に立っておる。これが変らぬ松の世の型示し。神界の火・明るいぞ。日と月の働き、万倍の明るさじゃ。目あけておれまいがな。光の調節を皆がやっておる。魂レベルでだ。やらねば魂が光にまけてしまい、そのときの働きが出来なくなる。魂の成長に伴って除々に光の強さを上げていく。これが脱皮・魂の脱皮となり、魂本来の働きに戻っていくこととなる。すると魂は、本来自分が神であったことが、蘇ってくる。魂の成長の意味が九九にある。成長の程度に応じて光の強さを自分で調節していき、本来の姿に戻っていく。これが蘇りじゃ。時期が来れば分かる。魂が本来の働きに戻ることを出産という。片働きが、本来の光を取り戻して光り輝く魂となり、
に帰るのである。このプロセスは神話の中に隠されておる。神話を紐解く意味がここにある。神話の秘密(火水)じゃ。仮型から真型へ移行、成長すると自分本来の姿が見えてくる。見えて来んのはまだ一八十の中であるぞ。徐々に見えてくる。出産間近な証じゃ。神示が降りるということは、神の真理のみでない、神の指針として受け取れ。神は二十○二(フトマニ)を使って出産のお手伝いをする。だから九九まで来いと言うておる。九九まで来たら、神が産婆するでの。スルリと抜ければそこは神界じゃ。〈神・人〉となるのであるぞ。九九まで来る(九渦)のに自力大切ぞ。神に向かう力じゃ。後は神に任せろ。これが他力じゃ。任せきれんのは己があるからぞ。我を捨てろと申してある。我は九九までの役割。それからが神の役割。神の役割、取るでない。神無くしておるぞ。神の中に全てある。自力も他力も全てある。自力無くす努力より、他力を取れよ。否定するなと申してあろう。無くす努力、無駄飯食いぞ。全てあるのが分からんか。あるもの無くすこと出来んであろう。 
(5月30日)

昇龍は白、下から上へ昇る力。降龍は金、上から降りる力。天津、国津で現しておる。昇龍と降龍、組み組みてこの地(血・霊)で花開く、これ蝶の乱舞で現しておる。結びの型示しじゃ。百千万の世界じゃ。人それぞれに働きあるなれど、この世の働き大切なれど、他楽きが他苦しきに終っている。働きとは、他楽きであって、己も他も楽し楽しぞ。基が何か見てござれ、身欲・保身、蛇が潜んでいるぞ。真釣り外しの基じゃなあ。天には昇れまい。地を這うばかり、のたうち回るとはこのこと。地を這う者と天を飛ぶ者と出てくる。どちらも真釣りは出来まいがな。片働きの象徴としてある。天津・国津の片働きと申してある。元は一つぞ、なれど働きは二つ。否定が否定を産んだ結果ぞ。基が自己否定にある。神なくしておると申したでないか。八方塞がりとはこの九十。抜け出れまいがな。次元が変ると分かる。否定はない九十がな。全ての計りの中で成り立っておる。全ての(渦二つ=必然の働き)の中であることが分かれば否定が無くなる。昇龍(みきり周りの渦)と降龍(ひたり周りの渦)の働き、法則してある。二十○二じゃ。二十○二が分からんと九代は使いこなせん。九代は働きを現しておる。働きとは現れ、現象ぞ。現象に囚われるな、とはその裏に二十○二が働いておる。二十○二は神でも変える九十できん。変えれば神が神としての働きを否定することになる。否定は無いと申してあろう。はこの二十○二を使って、全てを動かす原動力としている。自分が自分を産んでいくのと同じである。このようにして一瞬の休みもなく、神は創造の喜びを味わい、体験し、さらに又、創造を積み重ねて行く。喜びが喜びを産む道理分からんか。苦が苦を産む道理と同じ九十。いずれも自ら創造に係わっており、創造が創造を産んで行く。これが神産みの喜び。神産みの喜び味わいたければ足元を見よ。神は全てを用意しておるぞ。なにも足らん九十はない。今いる九九、この中に全てがある。他には無い。神はいつも無条件、与え放しの喜びじゃ。放すと掴めると申したではないか。固く握っておいては掴めないがな。放せ、放せ。放して神産みの喜びを掴め。またそれも放せ。次々に喜びが入ってまいるぞ。神界にも二つ。一八十内の神界と外へ出た神界。外の神界の型写しとなって現れている。九の座、竹を通った九の坐。坐とは人(神)・人の下に土が座っておる産土力じゃ。真釣り合って神・人と成り、下で支える力、産土力じゃ。外との関係もそうであるぞ。人様を下で支えれば、神がその下からそなたを支える。どこまでいっても神が下から支えるぞ。陰働きと申してある。下から支える苦労はせよ、すれば神の苦労の万分の一かは分かる。神の苦労は苦労する喜びぞ。親が子供の成長を楽しみにするのと同じ九十。型で示してある。親の苦労、子知らずとはよく言ったものだ。子は親になってみないと分からん。まして神の苦労、裏で支える苦労、神となって始めて分かる。神が神に成る為にどれだけの苦労があるか神になったら分かる。神の苦労、申し訳なく、有り難く、涙あふれ出るぞ。神は全てを使って神成らせる為に働いているぞ。全てじゃ。神に成る以外、選択の余地は無い。ヨチヨチ歩きから、二本の足でスクリと立って、大地を踏みしめて歩く成人の意味が九九にある。歩いたら他楽け。神第一として働け。それが神事(仕事)じゃ。神社参りばかりが神事ではないぞ。神の為に他楽く九十。これが神事じゃ。今の日常の中に全てあるぞ。「神の為」との言い訳通用せぬ。働いた九十が神の御用につながる。足場大切と申してあろう。今の足場離れての足場はない。今、九九が足場じゃ。神に仕える心(九九路)大切じゃ。神と人を分けては、この道理分からなくなる。全て神の働きの現れ、無駄にするでない。己の内に深く入れ、外へは入れまいがな。深く入れば、神が見えてくる。大いなる力の幕開けじゃ。五十(イセ)の幕開けと申してある。五十の幕引きとは古い空を捨てて新しい時代に入る九十ぞ。ウズ芽殿が幕引きをいたす。九け(コケ)たものをつかって九けたもので幕を引く。新しい幕開けの始まりじゃ。九九理の道は九九にある。皆が通る道。一人でしか通れないであろう。一人一人と申してある。この道、九の道でもある。神示が降りるということは、言葉を使って言葉を解いて行く結果じゃ。言葉を握っていては解けまい。解くとは固定観念の元となっているものを見て解いていく。言葉の裏に隠れている蛇が見えんか。身欲、保身、恐怖が隠れておるぞ。一つ一つ解いていけ。手放すと入って来ると申してある。宇宙、大いなる宇宙が入ってまいる。神示はいつもこの様に降りてくる。音楽も同じ九十。この者の因縁を使ってこの神示を降ろしておる。因縁とはかくの如く働くものじゃ。神でもこれをいじることは出来ぬ。なれど活用することは出来る。働きが働きとして働く所以だ。 (5月31日)

九の字を見よ、火(|)が出て水(―)が添い、昇る姿じゃ。十は「足り」火と水が真釣り合った姿ぞ。九に成りて始めて昇龍、降龍の力が働くぞ。姿形は文字にも表わしておる。言葉もだてにある分けでない。言葉の裏に隠されておる姿が見えんか。だから言葉を解けと申しておる。宇宙、宇宙の運行。三次元で見る宇宙とは姿が違う。「花より団子」と申してあるのは中味の九十じゃ。中の姿が見えんか。神示で示しておる。あの図じゃ。宇宙の働き、運行を示す図は、こちらの世界に来れば分かる。今は分かるまいがな。形を見ておけ、真理が掴めるぞ。働きは言葉よりも絵の方が分かり易い。正確に伝えおるのなれど見ても分からんであろう。昇龍、降龍の働く姿が示されておる。神示の働きの神示とは宇宙の真理を伝えることを意図しておる。言葉も含めて全ての面においてじゃ。宇宙と言うてもそなた達の考える様な宇宙ではない。一八十の外にある0九十の宇宙じゃ。0九十の宇宙がこの三次元に写って宇宙として構成されておる。いわば似せて作られた宇宙じゃ。仮型と申しておる。言葉の解きが先ず第一ぞ。言葉によって固定観念を抱いておる。全て運行し、止まることを知らないこの働きを言葉によって固定しようとしておる。固定した物を固定したもので解け、道理じやなあ。止まることを知らないこの宇宙にあってなぜ固定しようとする。一八十内でしか出来ない芸当であるぞ。足場が崩れ落ちる。変化、変化ばかりの世と申してあるが言っている意味が違う。推移を見守れ。神の言っている変化の意味は、創造する喜びぞ。そなた達は、固定する苦しみを味わっておる。流れに従えとはこの九十ぞ。流れに乗れば楽なれども、そなた達は、流れの中で泳ごうともがいておる。任せ切れていまいがな。流れに任すとは、全てに委ねる九十。我があっては、委ねられまいがな。我はあってはならん、無くてはならんと申したではないか。いつまで我を背負っておるつもりか。神は見て見ぬふりはしておらぬぞ。すべてお見透しじゃ。なれど我は我を使って解けよ。否定してはならん。同じ道具の裏表の意味が九九にある。病気は病気でもって直せよ。否定する結果が病として現れるなれど、これも神の愛からじゃ。病気を否定するから直らん。病気は病気でもって直せとは九の九十を言う。基は想念ぞ。想念が貸し与えた体に写ってくるのが分からんか。体には体の働きがある。想念が元となって体に写って来ていること分からんか。体に積はない。想念の積み残した荷物が体に反映して来る。悪所を切り取っても想念までは出来まいがな。元はどうした。カスが残っておるではないか。掃除大切な九十少しは分かりたか。言葉を解く鍵は想念観察じゃ。今、自分が何を発しているか分からなければ解けまいがな。解き結びじゃ。言葉という剣を使って、言葉という鑑に映せ。剣、すなわち鑑じゃ。別にあるのではない。同時にあるものじゃ。分け隔てするから分からなくなる。全て同時、玉も同時ぞ。玉が見えないのは、働きが分からないからだ。働きが分かれば見えて来る。三つ同時に見えて来る。今玉が隠れているのは型示し。外に玉を捜しても無い。形に囚われるな。内なる形が先、外は後からついてまいる。
(6月1日)

取り違いいたすな。神の証。埋めたものを掘り出す九十。赤玉の九十じゃ。赤玉なかなか手に入らまいがな。型示しの九十じゃ。薄明かりの世と申しておる。明かりをともせよ。神の明かり明るいぞ。目を開いておられまいがな。自分で調整しておいて、お陰無いと申すな。神はいつも与え放しと申しておる。受け手が無いだけじゃ。証を言うておる。神の証じゃ。あかしとは明石であるぞ。明石もダテに行なっておるのではない。明石とは赤石じゃ。赤石が埋めてある。赤玉の九十じゃ。赤玉を掘り出せよ。それがそなたの証となる。神の証とは型示しの九十じゃ。神の型示しはそこかしこに出しておる、なれど気付かぬ。そこかしこに埋めてあるとは、そこかしこに出ている九十でもあるぞ。赤玉、血、霊の九十でもある。霊(チ)の流れ乱しておいて、赤玉は出まいがな。血は霊と申しておる。献血とは、血、霊の乱れの型示しであるぞ。血を乱しておいてどうする。霊が元ぞ。元乱れたら働かまいがな。霊筋の乱れ、神界の色の乱れぞ。天河で示してある。よく捜してみよ。答えは示してある。 (6月1日)

岩戸内においては、神・霊・現界あるなれど、岩戸の外では神・人しかない。存在のしようがないのである。霊界をつくり、岩戸を閉めたこと分かるか。千引の岩戸じゃ。岩戸閉める九十によって無い世界、作り出したのであるぞ。昔は神と人共にありたのであるが、岩戸閉める九十によって神を忘れたのであるぞ。神を忘れる九十によって迷いを生じ、悩みを生じ、様々な苦楽を作り出して来たのじゃ。相対二元の九十じゃ。恐怖は働きとして、二つの働きの一つとして出たのじゃ。真釣り外しの原実としてある。神を忘れる瞬間でもある。神が神を思い出すには、自らが閉めた岩戸を自らが開けていくしかあるまい。コケむすまでじゃ。神はいつでも指針を与える。神武天皇とはそなた達一人ひとりの九十であるぞ。忘れたか、そなた達一人一人が神武天皇なるぞ。スメラ命じゃ。スメラ命世に出るぞ。神は全ての道具を使い、神である九十を思い出させている。空海殿によって密教が仏教という形をとり、真理を伝えて来た。かくの如く神は様々な形、方法を使い真理を伝えに伝えて来たし、今の今もそうであるし、永遠にそうであり続ける。神の旗印は、?、これじゃ。これが神の旗印、この旗を振る者はおらぬか。神はこうして伝えに伝えておる。神が九九である九十分からんから、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしてばかり。九九しか無いと分かると集まって来る。様々な御魂の因縁を使って。神・人、これは岩戸の外に出ないと成れない。神人合一と申してある。一八十内では何をそんなバカなと申しておる者ばかりじゃ。九九路の奥底にある否定を見てみよ。神である九十否定しているではないか。口先ばかりでは通らん。神はすべてお見透し。見て見ぬふりをしておるではないか。千引の岩戸と申しておる。神である九十を思い出すには否定を無くせ。神産む九九路、神九九路と申してある。息、三次元の目で見ると固定しているものでも神の目から見るとイキをしておるぞ。固定したものなど何も無い九十が分かる。大地も呼吸をしており、花も草も全て呼吸をしておる。この文字も呼吸をしておる。息が息足らしめる九十を息長足らし(オキナガタラシ)と言うぞ。長命とは息長くというが、神の呼吸に合わせる九十をいうぞ。全てに神の息吹を感じ取り、合わせていく九十。これが息長足らしじゃ。神功皇后様の九十でもある。神の息吹を感じこの地に現していく、これが神功皇后であるぞ。三韓征伐ではない。言向け和したのじゃ。今の人民、征伐と聞くと武力ばかりを連想する。やった、やられたの世界じゃ、これでは争いは無くなる訳がない。神武天皇も同じ九十ぞ。言向け和する九十が神の息吹ぞ。 
(6月2日)日月の神

火が立つということは、神に向かう九十。神に向かわずしてどこに向かう。神第一と言うのは神に向かうこと。それ以外には無い。いつまでたっても火が立たないのは、神に向かっていないからだ。九九里の道、九の道というのは、神に向かう九十、神に向かうのは一人ひとりが内なる光に向かって歩む九十。歩みとはそうゆうもの。いくら歩んでも神に向かわなければたどり着けない道理。道理とは道に適った九十をいう。道を外れたら着けないのは当たり前ではないか。元ツ神の働きは愛と力。この愛と力を封印して一八十内に入って来たのであるぞ。仮型と申してある。仮に力と愛を表現するとどうなる。二元に働くしかないであろう。この二元に働いているものを使って二元を開いて行く。一八十開きの始まりじゃなあ。一八十は一枚ではないぞ。五度の一八十閉めと伝えてある。一枚一枚開いて行く。裏表十枚じゃ。十(神)閉めたのであるぞ。イスラの十二の流れぞ。十無くしている型示しぞ。一枚一枚開けよ、神待っておるでのう。開くには縦、神に向かわねば開けまい。火の働きと申しておる。ロウソクの光じゃ開けまい。仮型は本来の働きに似せて働いておる。仮型が仮型たるゆえんじゃ。仮型なくして真型は分からぬ。仮型は真型に似せてある。元つ愛は相対二元の愛、元つ力は相対二元の力。即ち恐怖が根底となる力に変わっているぞ。恐怖が暴力と支配を産むのが分からないか。相対二元は様々な形をとり、働きの形として現れる。根底はこれじゃ。恐怖も神に向かう為にある。反対じゃなあ。否定的なものが神に向かう道具となるとは。否定も神に向かう道具であるぞ。否定を否定するから否定が生まれる道理、未だ分からんか。違うものこそ神に向かう道具となるぞ。神無くしておるとは、神に向かわない九十。外に向かうことでもあるぞ。否定とは二元の働き、自らを知るための道具であるぞ。先ず火を立てる九十、神に向かうこと大切じゃなあ。
 (6月3日)ひつ九のかみ

今の世の中神に囚われておるぞ。神を大きな声で言えまいがな。大きな声で言える代がミロク代じゃ。大きな声で言うのは、バカか気違い、と肚の中では否定しておる。神を言えんのは、己の中に神無くしておるからじゃ。水の世の型示し。水の世とは、横に流れるばかり。言葉一つとってみてもこの通り。神が神として声を張り上げても見向きもしない。話せるのは仲間うち、これではならんのう。何も声張り上げて神を叫んで見よとは言わない。己の内にあるものを見よ、と言っておるのだ。神無くしている第一等が己の内にあるからぞ。乙(音)を秘めておる。否定という音をな。見て見ぬふりをしても何もならん。皆己の神が知っておる。一八十閉めの元となっておるぞ。 (6月3日)


神示は言葉を使って示唆を与え、解く作業の一環である。多くの言葉が数限りない誤解を生み、争いの原因となる。言葉を一つひとつ解いて行くとそうした争いから自らを解放していく九十となる。言葉の持つ意味、多くを語らずして多くを語る、言向けや和すとはこの九十。肚で取るとはこの九十、肚で取れねば神示で取るしかないであろう。日月に全て書いてある。日月を読む九十で歩みの基礎となる。火水は歩みの書、歩まねば分かるまい。頭では採れんなり。多くを語らずしてとはこの九十、歩みの中に全てある。神の道を歩まねばこの道は分かるまい。まして日月、解釈ばかり、歩まねば分からないと申したではないか。歩みの中、神の道を歩まねば受け取れまい。霊的体験大切なれど、神に向かわねば同じ九十。自らの世界につかって満足しておる。蛇の道はヘビ。横にはってばかりでは穴しか見えないであろう。神は光の道、多くを語らずして歩く道。木木(モクモク)と歩め。光が見えてくるぞ。 (6月3日)

(神の成り立ちの絵)

神武三千年の計り。三千年と一口に言うけれど、それはそれは長い道のりでありた。九九まで来るのに大変な苦労、又それにより大いなる計りが完成いたす。神の経綸というものはそう簡単に分かるものではない。計りに計って九九まで来た結果だ。神が神たる所以はこの計りによって示される。「ハツクニシラススメラ命」というのは二つの時代で知らせておる。一つは神武、もう一つは応神である。応神とは神の応用、すなわちこの時代の九十でもある。二つの型示しにおいて知らせたものは、二つの仮型、すなわちどの時代の選択をするかを型で示した所に意味がある。神武の時代は一度目の立て替えの時代での型、応神とは二度目の立て替えであった。明治、大正、昭和と来てここ一八十成る時代を迎え、九九に応神の時代がやって来たぞ。この者達は、神功皇后の時代、一同に会したぞ。この時代の型示しが今でておる。全て型で示しておる。神の計りはこの様にして、時代を超えてその時々にも型で現しておる。応神の時代、すなわち八幡の神が現れたのは国常立の神が神として現れたのではなく、形を変えて現れたのであるが,この時に至りて直接国常立の神が日月の神として現れ、指導致すぞ。覚悟は良いかとは、この神でなければ直接の指導は出来ぬからだ。神が神としてこの本来の力を発揮するとは、統括者自らがお出ましと成るしかないであろう。この神は、日月の神として出て、神・人共に日月地の神として働く九十、これが人間の最終ゴールであり、この神がかからねば、神・人と成れぬからである。中途半端な神かかりは止めて、直接の神に委ねる、これこそが本来、人が神であった証でもある。そうなる九十になって始めて全てが蘇るのである。神話の時代においては隠れた存在でありた。この神が直接かかる九十はなかった。この神によりて、全て計られている九十が未だ分からんか、この神でなければ何も出来ん。神が神としての本来の力を発揮するとはかくの如くから来ている。中途半端な神がかり、霊がかりはケガの元、皆己から出た九十であるが、気付けおくぞ。神は外にあるものでなく、内にあり。この九十が分からねば、いつまでたっても神は分からぬ。己の一番近い所に神隠しておるのが分からんのか。明き盲と申したではないか。神と人と分離するから分からなくなる。イエスも同様ぞ。外のキリスト求めている内はキリストは復活せぬ。キリストの復活とは自らの復活であり、自らが復活する九十によって、人が本来神であった九十を思い出す。これが復活であり、神が神たる所以である。外のキリストは型示し、仏陀も同じこと。外の世に出たものも全て人間が本来持っているものを外に現しただけだ。これが分からないと神は分からない。神を知りたければ己の内を見よ。答えは全て乗っている。

意(イ)、真中、が乗ってそこにたどり着けば良い。これが意乗り。基本中の基本。この九十は、はるか昔から示されていた九十であり、何も目新しい九十ではない。人間が取れなかっただけだ。時節到来とはこの九十。神はいつでもどんな時代でも指し示しておる。何も無い時代など無い。神はかくの如く指し示し、今もこうして示しておるではないか。取れないのは皆己からぞ。邪魔しているものを見よ。全て自分である九十が分かる。 (6月4日)

イシ物言うぞは五十(イセ)物言うぞ。五十物言えば一四一四(イヨイヨ)ぞ。一四一四始まるぞ。

始まりは終りぞ、尾張の仕組で知らしておろう。イシは神のイシぞ。そこらの石をいくら集めても何もならん。図りの石じゃ。計りに図ったイシじゃ。大いなるイシがそこに働くぞ。神が表に出るという九十は、隠したもの現れるぞ。隠す九十あるまいがな。神のイシで計りに図った石は重たいぞ。岩音鳴りて、じゃ。千代に八千代の裏舞台、神武三千年の計りでもあるぞ。一八十閉めていたものが開くぞ。日月の神のお出ましと成るぞ。隠していた日が表に現れるとどうなるか見せてやる。日の大神様のお出ましと成るぞ。御三体の大神様じゃ。御神名に囚われていては見えて来る九十ないぞ。言葉を解いていくと見えて来る。月読の神が日を受けて日月の神としてお出ましに成ると言う九十は、この肉体を使って神がどんなものか、この地で見せてやる九十でもあるぞ。神無くして精神世界もあるまい。神第一と知らせてあるの未だわからんか。どこへ行くつもりじゃ。穴倉の中に入りてネズミでも捜すつもりか。外からは一八十は開けん。騙した神がお出ましと知らせてあろう。いずれも同じ九十。0九十の神は、未だ一八十の中ぞ。一八十は自らが明けるものじゃ。人頼りではならん。神に向かえとはこの九十。九九しかないのが分からんから、ウロウロするのじゃ。ウロウロ、チョロチョロは穴倉の中ぞ。日に向かって真っ直ぐに来い。神導くぞ。大いなる力。九九に来んと大いなる力は分からん。全てに働く力、神の力が九九にあり。働きは働きとして受け取れ、神のイシこれこそが奥山にしまってある宝じゃ。宝掘り出せ。奥山に神真釣れ、九九を依り所とせよ。神の依代どこにもないがな。神降りる所なくしておるぞ。

三。この世で現す数霊ぞ。今は二ぞ。一つ抜けておるではないか。二が人間に成り、争い元を作っておるぞ。三で無くてはならん意味が分かるであろう。少しは考えよ、頭は伊達に上に付いているのでは無いぞ。今は下についておろうがな。逆さまの世と申してあろう。頭が頭として働くのは上に付いておる時のみぞ。逆立ちしてては考えられまい。手は手の役割り、足は足の役割と申してあろう。頭は頭じゃ。手、頭の役出来んぞ。それぞれがそれぞれの役として働くぞ。肉体は宇宙の型示し、神の型示しでもあるぞ。肉体も本来の役に戻りたがっておるぞ。働き。働きこそがこの地で現す手段であるぞ。手段は手段としての役割、目的では無いぞ。形に囚われるなよ。元を見よ。元は神じゃ。神がくどう申しておる。初めが大切、元が大切と申しておる。神無くして働きは無いぞ。 (6月6日)


(アメ)のひつ九の神のお神示であるぞ。こたびは多くの臣民に知らせたいなれど聞く耳持つ者おらぬ。神示で九九路十キ目九(トキメク)とは、九九路踊り、多くの者に知らせようと想う九九路であるぞ。九九路ときめくとは、○九○九(ワクワク)じゃ。奥底より喜び湧き出ずば、○九○九とは成るまい。三四三(ミタミ)知らせおく九十がある。仮型の構え大切なれど、何時までそこに止まっていてはならぬ。肚九九ってないぞ。神は全てお見透しぞ。上っ面ばかりでは何もならぬ。神に恋する如く人を愛せよ。多くの者、勘違いぞ。人は神なれど、一八十内の神ではままならぬ。多くを学ぶのは良いなれど、学に落ち入っているぞ。知識悪と申したではないか。外の意見に左右されている様では御用務まらんなり。肚九九れてない証拠ぞ、内のものを見よ、恐怖が潜んでおるぞ。内を見ずして外に答えを求むな。皆己から出た九十、他人様を恨むでない。人は鏡と申し伝えておろう。多くのアヤマ知、真釣り外しが元ぞ。否定と申してある。ますますもって一八十の中に入ってどうする。出産真近かぞ。一八十の中でぬくぬくと育っておいて、外へでたら世間の風は冷たかろう。なれど神の中に入る勇気大切じゃなあ。一八十の外は神・人ぞ。一八十内では恐怖と写るが、出れば極楽じゃ。三六九代と伝えてある。今、九九が三六九代じゃ。三六四であるぞ、足して十三、中心の光、天之御中主神であるぞ。皇太神様であるぞ。取り違い致すなよ。多くの者が外に神を求めておるなれど、外は写しでしかない。内なる神に手を合わせよ。太神様がお喜びぞ。嬉し楽しの代近づいたぞ。日の光、目を開けて見ておれまいがな。神の光、なおさらじゃ。一八十の外に出ると見れるぞ。明る過ぎて目開けて見ておれまいがな。一八十の中の九十ぞ。神がかりで知らせても何もならん。人、神となりて、神・人となるぞ。大きな意味でとらえて下されよ。神待っておるぞ。人待ってないぞ。この違い分かるか。神示大切にせよ。神の言う九十、一分一厘も違わん。大いなる御力が九九に働く。
 (6月7日)ひつ九のか三



水。万物を生かしある力が九九にある。水によりて人は蘇生をし、四三返ることもできる。水によりて死することもある。水の持っている力を如何なく発揮するには、神を通してでないと出来ぬ。スサナル様と乙姫様の力じゃ。元を忘れてはならぬ。水ばかりの仮の世というのは、水の力を塞いでいる九十でもあるぞ。水の基は水にあらずして火の力が無いと四三返らぬ。神無くしていると申したではないか。神とは火の力、元ツ御力であるぞ。(フデ)で知らせてあろうが。今の科学では分からぬ。火の力がどんなものかとくと見せてやる。火の力が無い九十は神無くしている九十と同じ九十。神産みの産湯で型示しをしておる。火と水を組みて水の力が発揮されるぞ。水だけでは流れると申してあろう。行けども行けども果てしなく広がるばかり、岸にはたどり着けまい。火の柱、天の御柱じゃ。水は国の御柱。二つ揃って一つの働きをするぞ。水は水としての役割有りて、水としての働きが出る。水をいくらいじったからとて水の力が発揮できまい。エネルギー、火の働きのエネルギーが水の働きを補佐するぞ。気付けおくとよく分かる。元ツ水尊いぞ。大切にせよ。 ひつ九の(6月7日)

何事も「今」であるぞ。今、そなたが神示を読めば、今そなたに語っている九十であり、今、神が示唆を与えておる。今九九というのは、ここ、九九しかないからだ。神示は読めるうちに読め、魂の要求からぞ。魂が水を欲しがっておるぞ、神示という光の水をな。喉は竹の型示し。九の道ぞ。喉の渇きは、体のみでない。魂の渇きからぞ。三尺上は神界と伝えておる。魂の要求、それは求めて止まない創造の喜びぞ。創造こそが自らを蘇らせる手段としてある。この世においても芸術が創造の喜びとなっておるであろう。二元の喜びは常に苦が伴う。神の喜びは絶対、唯一の喜びぞ。人、神と成りて喜びを知る。これが二元の喜びを超えて絶対の姿となり、超越した喜びにつながる。神も人と共に歩くのは嬉しい九十じゃ。共に創造の喜びを味わうことができる。人間でも、親と成る喜び与えておる。子供は親の喜びで育つ。神も同じ九十。〈神・人〉となりてこの地で働く九十、どれだけ九九路待ちにしているか計り知れまい。親が出産の喜びを九九路待ちにするのと同じ九十ぞ。親の気持ち分かるか、神は尚更ぞ。
   天地(アメツチ)の 始めの時に 隠したる 九の霊の元の 夜明け近し。 
(6月8日)ひつ九のか三

中ツ神の神がかりとは命令が多いぞ。命令に従わねば不幸になるとか、命は無いぞとかいうもののたぐいである。これも全て己の天狗から出た九十ぞ。神は命令はしていないぞ。ただいつも示唆は与える。受け取る、取らぬは本人次第じゃ。全て己の内から出ている九十を肝に命じておけ。肚の底から笑える九十が来るぞ。五目無しじゃなあ。五目無くして神の息吹で満たせよ。神とはこんなに有り難いものかと思える日がきっと来る。それまでは掃除じゃ。御魂にこびりついたアカを落とせよ。多少の痛みは伴うなれど、これも皆己の為、磨けば釈迦、キリストじゃ。全てそういう風に出来ておる。分け隔てするのは己のみ、神の目からは区別ないぞ。皆々同じ魂、可愛いわが子じゃ。
ひつ九のかみ(6月9日)

大気都比売(オオゲツヒメ)とは大月比売の九十である。すなわち月読命の女神でもある。かぐや姫と申すのは九(渦)(コノ)神の九十であり、丹生都比売の裏の姿でもある。この神の力無くしては月の世、すなわち水の世は治まらんなり。かぐや姫は型示し、月に帰るとは、多くの贈り物、この世での物での贈り物よりも本来の姿に戻り、帰っていく九十から来ている。食べ物を司る神としても出したが、食物は人間にとって必要不可欠のもので、霊的な食べ物、すなわち物質の波動を形作る為に、霊的な力をそれに与える役割を担っておる。霊的な力が入らねば、物が単なる物質に止まり、生命活動の中には入って来ぬ。大月比売は月の女神としての形を隠し、食べ物という形で現れたぞ。丹生都比売殿の姿、少しは分かりたか。裏でのご苦労、神界の掃除も引き受けておる。食べ物は二つの側面を持つ。一つは人間を活かす活動、もう一つは死する活動、この二つを合わせ持つ所にこの神の性質を持っておる。丹生都(ニブツ)で表わしたのもその為じゃ。神界の役、ご苦労の連続、この神に感謝をささげる九十で現界にも現れてくるぞ。大月比売は、四国徳島でその型を表しておる。離れた存在でありた。大昔は九九が元ぞ。型写しは他の地域にも表れておる。濁合わせ持つものでなければ九の道は通れぬ。聖だけではならず、濁だけでもならず、二つの働きを合わせ持つ九十が大聖なる道に通ずるぞ。
(6月10日) 

右目から月読命・天津を産み、右の鼻からスサノウ・国津を産んだ。これがスサノウが国津である所以だ。スサノウは、仮型の神界において国津の役ぞ。左目の天照大神はまだ岩戸の中ぞ。騙したから騙した神が出てきたと申してあろう。この仮型の世・神界において、ナギ御一柱から生まれ賜いたゆえんの行為でありた。御一柱とは右から産んだ九十の型示しぞ。仮型において真型の型示しはスサノウにおいて出しておる。天津の田岐理比売、国津の田岐津比売、真中が市岐島比売となっておる。真中は火を隠す九十によって、龍宮によりて真型の型示しを現しておる。火を隠す、これこそが水の世の型示しぞ。水が水としての本来の役を封じ込め、仮型の中において恐怖と安心という二元の形をとっておる。どこまでいっても二元、神はどこへ行った。火が立っておらぬではないか。火が立たぬ九十には赤玉はでてこぬ。水が本来の水の役割に戻るには、元に帰らねば本来の力は発揮せん。火が立ち始めて水が添う九十ぞ。赤玉白玉で示しておる。水が本来の水の役割に戻る時、白玉と成る。またこの力によりて赤玉、愛が本来の愛の姿に戻る。仮型は仮型、真型とは何かを考える道具ぞ。古事記の中に0九十を隠しておる。0九十によりて魂の成長、歩みとなる。御魂は成長する九十によって龍宮を通り、出産を向かえるぞ。宮が0九十の世に出る産道。陣痛、神通無くしてはこの道は通れぬ。天津、国津の別なく、九九を通らずば出産には到れぬ。用意は良いか。神待っておるでな。仮型の世、神界はナギ御一柱で産んだが為ぞ。御一柱で産んだということは、右、すなわち水の世で生んだ型示しであるぞ。古事記を紐解けば分かる。古事記に隠されている真型を堀出せよ。御魂の因縁もわかるぞよ。答えはそこかしこに仕掛けてある。御魂の掃除大切、答えは全て己が内にあり。表看板は右、左は裏看板で隠してあるぞ。表裏で一枚看板じゃ。右手で使うのは表看板、裏は隠してあるぞ。内緒話は左手と申したであろう。仮型の世の型示しぞ。
 (6月10日)一二

日月は二十○二じゃ。二十○二はいじってはならん。神でもいじれないものを何故いじろうとする。その働きを現象として出しておる。現象は二十○二でもって解釈せよ。これが九代(クシロ)じゃ。九代は色々な所で現れおるから解釈結構。その場その場での御魂の掃除程度に写って来るぞ。解釈とはそういうもの、あくまでも現れじゃ。二十○二は法則、神でもいじれぬものをいじろうとする試み、破綻するぞ。まして穴倉の中、逆さまに写るぞ。二十○二は二十○二としておけ、解釈は働きぞ。二元を真釣ってこそ働きがわかる。真釣らいで分かるものではない。肝に命じておく九十肝心じゃ。火水は土台じゃ。土台大切にせよ。足元からトリ立っても知らんぞよ。右往左往するのは神無くしておるからじゃ。神なくして何ができる。考えてもみよ、神の働きで全てが成り立っておる、神無くした者が神を求めてもムダじゃ、横の神ばかりを捜しておる。自らの内に神を求めよ。全てはこの中に答えがある。水の働きと申したではないか。横は水の働き、順序が逆じゃ。神なくしておるとはこの九十。少しは肚に入ったかや。神働き、水の世にあって神を求める九九路大切じゃなあ。 

(太神)の 今に坐する 御代の働き 大御心に 適わんとす。
 (6月11日)

 どこまでも神を求めよ、内に在って光を求めること大切じゃ。神は光、全てを含む光であるぞ。神が神たらしめるもの、それは光じゃ。光と闇とは働きの九十。神の光は全てを含んでいるが故の光であるぞ。これが聖なる光と言われているもの。内に光を求めるものと向かえない自分がいるであろう。全面的に光に向かえない自分を大切にせよ。否定してはならん。全ては自分、この反対の働きこそ神に向かう原動力と知れよ。二元の働きを大切にせよ、全ては九九から出発しておる。二元の働きとの中にあって始めて神を求める九九路湧いてくるぞ。働き無くして真中は出て来ないなり。大きな意味でとらえてくだされよ。言の葉ばかりに目が行くと真意が伝わらぬ。裏も表もある世界、まして神芝居。なんでも有りの世界じゃ。宇宙、宇宙の運行は図で示した。計りに図った図であるぞ。九九路して受け取れ。宇宙の一点を見つめると運行が分かるぞ。一つが鍵穴となって扉が開くぞ。一八十も同じ九十。きっかけは何でも良い。一点突破じゃ。神の鍵穴大きく開いておるぞ、なれど開けまい。己が己が我が出ているぞ。全てに委ねる九九路大切にせよ。一八十開きの鍵は一つ。己を無くす九十じゃ。我があってはならず、無くてはならずと申したではないか。全てが九の計りで進んでいるぞ。神に在って神を無くす九十肝心、神に囚われていると前が見えないぞ。己の牢獄にはまっているぞ。現象は全て真仮名産(マカナウ)為にある。真仮名井上手になれよ。無いもの捕らえてどうする。御魂のくせ早う気付けよ。神は与え放し、通らぬは皆己からぞ。何事も必然である。すべて必然、目の前に起きているもの全て必然であるぞ。必然であると受け入れるしかないであろう。それを何故否定する。目の前はそなた達が創り出した現象ではないか、それがなぜ分からん、いつも疑問を持つ、そして否定する。神のプログラムは御魂の生来、因縁、癖を使って成されるぞ。全て神がさせて来た九十、また自分が選択して来た九十であるが、自分で決めてきた九十でもあるぞ。神の仕組、経綸はすべて必然の中で動いておる。この中より、一歩も外に出ることは出来ん。すべて必然とはそういう九十。自分我自分我と思っている内は何も分からん。陰に隠れている蛇とはその九十も言うぞ、蛇は龍と成りて昇華するぞ、神に向かう九九路と申しておる。日向(ヒムカ)とはこの九十。外に流れるのは水の働き、内に向かうのは火の働き、なれど内なる神に向かわずば同じ九十。同じ穴のムジナ、穴倉の中ぞ。神は光、絶対の光、聖なる光と申してあろう、天照大神様であるぞ。勘違い致すな、外の天照ばかりに目を奪われていると本質が見えて来ないぞ。必然。全て必然の中で動いている。神も宇宙も森羅万象の悉くが全て必然の中で動いている。神もその中で自らを再生する。神が神自身を再生、創造していくのであるぞ。全てこの様にして必然の中で動いているのであり、神とてこの必然の外に出られん。必然の外に出れんのが分かると受け入れるしかないであろう。月の神の働き 瑞の御魂の働き。 
(6月15日)

左の鼻の穴から出る鈴の音、鈴とは鳴り成り響くスサナルの神の音じゃ。現界に現す(ス)の音の響き、これこそ待ちに待った誕生の岩井(祝い)の音じゃ。神が神として誕生する九十、これ程嬉しい九十は無い。幾歳待ちに待った九十か、この神の誕生は人が人として誕生の意味も有るぞ。人が神・人と成りてこの地で働く響きの音じゃ。この鼓動が伝わらないか、神の誕生の音、産田産田(歌ウタウ)誕生の音じゃ。左の目を見よ、左は隠してある神が動き出す音の音色じゃ。左の目の中に隠してある神の息吹が吹き出して参るぞ。(太神)に感謝。神が神としての誕生をする為に神はどれだけ待ち望んだ九十か。全てはそなた達の為に用意された万象物ぞ、それ以外には無い。全てはそなたの神の神としての誕生を待ち望んだ結果としてあるのぞ。神示で現すのは言葉として制約があり、正確に伝えるには数や図で伝えて参るぞ。しかしそれを解く者がいない為の致し方なしの文字伝え、九九路でくみ取りて下されよ。少しは蘇ってきたか、神界での約束事、今の中に蘇ってきたか。感謝の響きが伝わって来たか。太神様のご苦労、少しは九九路で取れるように成って来たか。すれば感謝の響き現れ出るぞ。 
(6月16日)ひつ九のか三

蛇の脱皮とは訳が違う。サナギから蝶に成るが如しだ。魂の成長はかくの如く飛躍的成長をとげる。それぞれの段階はあるなれど、岩戸内では蛇の脱皮の如くの成長をし、一八十から外にでるのはサナギから蝶に成るが如く美しい成長をとげるのである。外にも型示しはいくらでもある。魂の成長とは飛躍的成長を意味するのであるから、全ての働きが九九で十全に発揮される九十となる。その為には参道、産道を通らねば九九までたどり着けない。痛みが伴う訳である。痛みを恐れていては産道は通れない。出産する時の痛みと似ている。魂のアカを落とす為には様々な体験を積み、積む九十によって成長のカテとしている。そのときにこびりついたアカを落とすのが魂の成長となる。丁度、食べ物によって肉体の成長を促すと同時に、食べ物による肉体の負担を無くしていき、肉体を若く蘇らせるのと似ている。魂の成長は自らが決めている。全ては自己の内なる神のハタラキによりてその魂の成長の過程が決められている。現界での働き、それは魂の成長過程と対応している。全てが始めから決められている九十であり、変える九十は出来ない。これが仕組であり、全ての全ての源でもある。全ての源を知りたければ九九に来い。九九に来なければ分からない。九分九厘までは分かるなれど、あとの一厘は分からない。これが神の仕組であり経綸である。神の経綸、これこそが全ての源である。だれも九の外へは出られぬ、というのは全ての人間の中に仕掛けてあるからだ。仕掛けてなかったら発動しても外には出られぬであろう。これが一人一人が神なる故のものであり、神・人と成りてこの地で働く原動力となるからである。その為には、まず第一に魂の成長、これが一番重要な課題となる。その為にこの地上では様々な現象を起こし、それを糧としている。その九十によりて、一歩一歩成長するのである。最後の仕上げは蝶に成る九十。これ神・人という意味である。
大いなる御力、これこそが全ての源、光、愛、力。
 (6月17日)ひつ九のカ三


神恋する如く人を愛せよは真理である。人を愛せないで神は愛せない。なれど人と神とを分けるでない。人は神、この九十を忘れるな。神と人を分けるからそこに溝ができる。神と人の分離の始まりじゃなあ。人は神、なれど神は人でもあるぞ。神を通して人を見ても良い。人を通して神を見ても良い。なれど分け隔てするでない。人は人に止まらず神と共にあるのであるから、神が人という衣を着ているのであるから、その中に神を見いだせよ。神は人、神は人と共にあるのが嬉しいのであるから分け隔てならんなり。玉置。玉を据え置くから来ているぞ。玉置の神は国常立の神と知らせてある。他にも神々様祭りしてあるが外の型示しぞ。すべて御一柱の中に含まれておる。分け隔てするから分からなくなる。御一柱の中に坐する也。玉置の神が動く時、一四一四(イヨイヨ)だぞ。最後は九の神が動くなり。雲。出雲と知らせてある。雲湧き出ずる所、皆出雲ぞ。出雲とは想いぞ。雲の如く湧き出てまたたく間に広がって行くぞ。想念をしっかり見張れ、見晴らし台ぞ。雲晴れ、霧晴れ、日本晴れぞ。富士は晴れたり日本晴れぞ、分かりたか。天の叢雲の剣が動くぞ。スサナル様の出番じゃ。使い方よく会得せよ、一八十開く鍵ぞ。全てに透けきれよ。神第一と透け切れよ。想いが第一。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は、あちこちに潜んでいるから、天の叢雲の剣で対処せよ。内から鑑光だすぞ。鑑、光れば玉の出番じゃ。永遠に変る九十ない光輝く玉ぞ。その玉をしっかりと高天原に据え置けよ。これが玉置の意味じゃ。少しは分かりたか。神真釣り。外は型示し。内なる神真釣り大切。我は神に向かう力、そのあとは手放せよ。大いなる力がそこに加わるぞ。いつまでも神を掴んでおるな。神も手放せ。我が邪魔してござるぞ。大いなる神の御技が流れてくる。神に委ねるとはこの九十。いつまでも握っていては入ってこない道理。全て神の働き、全てが神の現れであるから、神に委ねる九十大切じゃ。カラダの力を抜いて喜びに生きよ。流れに添うて喜びに生きよ。全ては神が計らってくれるぞ。大安心じゃ。 (6月19日)ひつ九のか三

宇賀御魂神、神界においては宇賀御魂の0九十の姿を隠してあるぞ。母親は「恋しくばたずね来て見よ和泉なる、信太の森にしのびこそすれ」のあの白狐、白ぎつねぞ。本体は宇賀御魂の神でござる。これが神界で隠した九十。宇賀御魂が分からなければ片手落ち。一柱で生みたまえたと申してあろう。一柱では産めない道理、母親はどこえ行った。火を隠したとはこの九十。火が立たないとはこの九十。火は女でござるぞ。女は「火」と申してあろう。母親は火、即ち愛の働き、母親がいないという九十は、本当の愛が無いという九十。仮型の愛でござるよ。この九十によりて、0九十の愛と0九十の力を封じ込め、仮型となったのでござる。仮型では母親の九十、分からないであろう。愛を知らないと同じ九十。力の世とは御一柱で産みたまえたことの意味を込めての九十でござる。愛は母親在りて体得できるもの、母親がなかったら愛は育たん型示しじゃ。神界で隠した九十、これは大きな意味がある。0九十の愛とは何かを知る機会が与えられているのである。0九十の愛と力、これこそが仮型で封じ込めていたものである。愛とは人間の信頼関係に通じているぞ。信頼関係無くば不信感が根底にあり、従って争いの原因ともなり、二元の対立の元とも成っておるぞ。これにより力が勝る九十がこの世で生きる道と思うように成りたのであるぞ。力こそ全て、この世はこの図式で成り立っておる。根底は恐怖ぞ。愛が無い為の恐怖であるから、力ばかり=水ばかりの世と申しておる。これにより、仮型が二つの違った血の流れ、すなわち天津、国津という形をとらざるを得なかった訳であるぞ。天津、国津の争いとは、力が根底にあり、強い者勝ちの図式と成ったのである。力を力として、その力を如何なく発揮するには愛が根底になければならぬ。
(6月22日)ひつ九のカ三

坐王(蔵王)権現は力の象徴としてある。力、これは九花開耶の霊の流れ。この霊によりて白、即ち白龍の力が加わる。白龍は様々な形として現れる。しかしてその根本には力が存在する。この霊の流れを引く者は力を制御、即ち管理し、コントロールできる術を学ばなければならぬ。この為にはもう一方の対極にある愛がどうしても必要となる。これにより力が力としての本来の力を発揮する九十となる。愛に裏打ちされた力、これこそが坐王権現の力の象徴であり、スサナルの神の現れでもある。九花開耶とは大山津見の九十であり、桜に象徴されるぞ。桜も二つの流れがあり、仮型においては天津、国津という形を取っておる。これにより二つの働きが、力の二つの働きが現される九十となる。
 (6月23日)ひつ九のか三

働きとしての愛、愛そのものは単独では働かぬ。常に二つの働きを伴って働くのである。その最たる働きが愛と憎しみである。それがどの様にして働くのかといえば、自我があるからである。自我の作用により自分の方に向かせようとする力が内的に働き、様々な形を取って引き寄せようとする。その結果、自らの内的恐怖が形として表面に現れ、顕在化するのである。一方、愛と恐怖は本来の愛の働きに一番近い存在となる。なぜなら恐怖は力に裏打ちされたものに他ならないからである。恐怖が恐怖を産み、さらに奥深く内在したものとなっておる。なぜならば、否定という対極の顕在化されたものが恐怖であるからである。この結果、自己防衛本能が起こる九十となる。この恐怖を見ずしては、その先に進めぬ為、一八十開きの鍵となるからである。恐怖は無い九十は無い。ある九十を認識せよと申したはずじゃ。認識する九十で消えて行く姿となる。大いなる愛がそこに見えて来る。愛は愛として単独で働くものではない。常に二つの働き、即ち愛と力、これこそが真型の型の元ッ姿であるからだ。大いなる力が働くには大いなる愛に裏打ちされていなければならぬと申してある。これこそが、二元が二元として働く元ッ姿であると同時に、真中の姿でもある。それが一八十内においては、形を変えて働いておる。愛は憎しみと共に、力は安心と共に常に対極に置く九十でその存在を見え隠れする。しかしてその実体は愛本来の働きに一番近いものとして恐怖がある。恐怖が、一八十を開く鍵と申してある。なぜなら恐怖がある九十によってその奥にあるもの、真実の愛が見えて来るからである。真実、これこそ一八十の外に出るための渡し舟じゃ。舟とは二根じゃ。二つの根、根本の働きの九十。元が分からんで枝葉ばかりではたどり着けまい。宝舟、違うものこそ宝舟。七福神殿のお出ましでござるぞ。 
(6月23日)ひつ九のか三

現実に立脚した火の働きとは、出た現象の中で神の意図している九十は何か、それを通して神の真意を知ることである。そなた達一人一人がこの神の意図、真意を得る手掛かりにするがよい。これが現実に立脚した火の働きを知る九十と成る。想念の世界で作られし世界がこの三次元に移り、働きとして出る。これが火の働きを通して自らの想念を創る上で役立たせる九十大切じゃ。この現実(三次元)世界と四次元世界との橋渡し、これをノアの方舟と称するぞ。ノアの方舟とは外の型示しが内的世界に反映されねば意味を成さない。神界は神芝居。なんでも有りの世界じゃ。神のせいにするでない。自分が決めた九十。尻拭い自分でせよ。尻拭いとは出た現実を否定しない九十ぞ。出たもの全て自分の鑑に写りそれで判断、二元の判断をしているぞ。どうとも取れるこの世界。真実を見出せよ。神成らせる為の働きは何でもする。よく覚えておくが良い。
(6月23日)ひつ九のか三

一二三四十七渦(日月の神がお出ましと成り) 
九四一二イ四(この世を立て替え建て直し致すぞよ)
四一四一(用意はよいか) 
(6月27日)一二

イはイであるぞ。井であるぞ、いであるぞ。イの出であるぞ。人の体は型示しじゃ。真中なくしてはならん。真中なくしておるぞ。神無くしておるぞ。親がないというのは型示し、片親がないのは型示し、真中ない九十の型示し。ここまで九十分けて申しても分からんか。神の働き半分のみ、水のみでは働かん道理分かるであろうが、人のみでもならず、神のみでもならず、〈神・人〉共にと申したであろう。多くの神民勘違いぞ、分けるから片働きとなるのが分からんか。全てにそうじゃ。己の九九路が先に掃除、見えて来るものが変って来るぞ。
 (6月27日)ひつ九のか三

富士と鳴門の仕組分かったら次の仕組にかからすぞ。次は尾張の仕組ぞ。甲斐と尾張の仕組と申してあろう。尾張の仕組とは美濃尾張の仕組じゃ。この仕組が終ると夜が明けるぞ。日の出の御世となるのじゃ。日の出になりたらミロク世となるぞ。楽しみにしておけ。日の出の神はそこかしこに出て来るぞ。神が神としての働きが強まるからじゃ。尾張の仕組は甲斐の御用と共にある。肚九九レてないと御用六ヶ敷ぞ。働きが働きとして出て来るからじゃ。いつも神と共にあることを自覚せよ。神と共に歩まねば御用六ケ敷ぞ。人、神と共に歩むのが嬉しいであろう。神も同様ぞ。価値判断まだしてござるぞ。出た現象は全て自分のもの、自分でないと思うから評論家と成るのじゃ。評論家はいらぬ。自らが招いたものとの認識に立てば要らぬ判断が無くなってくる。千引の岩戸は誰が引いたのでもない。まして神のせいにするな。全て自分、自分の内に全てあり。
(6月30日)

遥かなる悠久の時の流れの中で、全てが神に向かい、さらに又、創造の中に加わる。神も宇宙も森羅万象の悉くがこの営みの中で流れていく。一瞬も止まる九十なく永遠という時の中で流れていく。全てが光、聖なる光の中で流れて行く。
(7月2日)ひつ九の

時とは十成るキぞ。神と共に歩み、共に生きる、これがトキの意味ぞ。言の葉に囚われるなとはこの九十。時間はあって無きが如しぞ。ただ状態の動きがあるのみぞ。それを時と呼ぶぞ。この三次元も同じ九十ぞ、分かりたか。時間という概念を捨て去り、ただ物事の推移を見守り、その中で生きていく、

それが時間という概念を解いていく鍵となるぞ。神界は今、九九に全てがある。おしなべてこの九十が分からんから神話を紐解いても分からんのじゃ。てが今の中に動いておる。今、九九に生きておれば全てが見えて来る。見えて来んのは掃除が済んでないからぞ。どんな困難にも立ち向かえ。神が与えた試練じゃ。(7月4日)

恐怖と安心とは右、すなわち水の世(一八十内)での働きであるぞ。一八十内においては本来の愛と力が形を変えて恐怖と安心という形をとる。これによって本来の働きが仮としての形をとっているのである。力が恐怖に変るとき暴力が伴い、創造が破壊に変る。また愛が安心という形をとる時、安心によって現状を維持せんが為のものとなる。愛は本来の愛、即ち全ての物事を産む力が損なわれ、現状の維持を求めようとする。また愛は恐怖を伴い、全てを否定する方向に働く。これにより愛が恐怖を産み、力が恐怖を産むのである。すなわち全ての根底に恐怖が働いている。また恐怖は否定を伴うものである。否定は恐怖を伴い、恐怖は否定を伴うものである。恐怖は本来無きものゆえのものと伝えておる。このようにして恐怖と安心とはこの一八十内においては様々な形を変えて現れているのである。恐怖により一八十内に留まろうとする力が根底に働く。これにより神に向かおうとする力も二元の働き、すなわち力と恐怖、愛と恐怖から、愛と力に変るのである。これが一八十内からの出産となるのである。神が神たらしめる力を発揮するには九の道を通り、外に出る九十、すなわち本来の力に、本来の愛に帰るのである。これによって神が神として解き放たれる瞬間が訪れる。神・人の誕生である。二元の働きが本来の姿、三元すなわち、?を真中として愛と力がその働きとなるのである。神が神たらしめるのは、この九十において以外には存在しない。神が神の力を発揮する為には、この九十以外の道はないのである。よみ返り、蘇りとはかくの如くの九十であり、これによりその本来の力を発揮するのである。左、左に全てを隠してあるとは、この本来の働きを封印したのであり、この左の働き、火が立つという九十は、どういうものかを己が体験せんが為のものである。体験が一番、体験せん九十には話しにならぬ。話とは八ナシ、即ち八の世界(一八十内の世界)を通り抜け、九の世界に入らねば、話にならぬ。 
(7月14日)一二

九花開耶の血、これこそが真中の真中たる所以の血ぞ。この血によって真中がよみ返るぞ。この血によって蛇が龍に変るぞ。この血こそ霊の元の元の血ぞ。よいか、この血の蘇りは神が神としての誕生に欠かすことの出来ない血となるぞ。皆々この血は流れておるぞ。誰一人のものではなく皆々同じ血ぞ。霊の元とは富士ぞ。富士は晴れ十(タリ)日本晴れぞ。富士に九花開耶比売祭れとはこの九十ぞ。真中の蘇り、これ程嬉しい九十はない。神の誕生でもある瞬間ぞ。祝い、真中の祝い、この時を待っていた。どれ程遠くから待ち望んだ九十か。この時程素晴らしいものはない。皆々可愛いわが子じゃ。親は神じゃ。じゃ。早く九九に来い。全ての力が蘇るぞ。愛が愛としての本来の姿をこの力によって発揮し、よみ返る元となるぞ。昇龍、太陽に向かって真っ直ぐに昇る銀の昇龍、これこそが九花開耶の姿ぞ。?の力、全ての元となる力ぞ。摩界とは否定ぞ。全て己の内なり。 
(7月17日)一二◎

我は蘇り、我は蘇り、この血によって四三返ったり 
(7月17日)日月の神

この血こそ全ての血の源の血ぞ。この血なくしては何も蘇らぬ。新月の時(7月2日)元に返る型を出したぞ。満月の時(7月16日)蘇ったぞ。この時は月食でありた。月が蘇る型示しを出したぞ。かいき(回帰)月食とは月が蘇る型でもあるぞ。隠れたものが表に現れる型であるぞよ。月は真中、真中の型示し、蘇る為には元に返って蘇るのじゃ。元に返らんで蘇る九十は出来ん。立替、建て直しじゃ。わかりたか。
(7月17日)ひつ九のか三


元に返るという九十は九花開耶の血が流れる九十、?に帰る九十。この血が流れねば蘇らぬ全ての源の血であるぞ。セバスチャン、この血の流れの中で聞こえてくる音ぞ、響きぞ。セバスチャンと共に歩めとはこの九十。岩戸を開く鍵ぞ。五度の岩戸閉めと申してある。言の葉の裏に隠れた岩戸開きじゃなあ。次は甲斐と尾張の仕組、分かりたか。分からなければ神示を読め。この中に全て書いてある。岩戸は一気に開く九十もあるぞ。覚悟は良いか。いつでも肚九九レと申してある。九九理の道じゃ。もう後には引けぬ九の道ぞ。神成らせる為の道でもあるぞ。外は型示し、内の一八十を開けよ。まして他人様、やる九十があべこべ、それでは岩戸は開けぬぞ。ヒントは与えてある。五度の岩戸閉めの九十。九九まで来れば分かる。神待っておるぞ。出産の準備はよいか、産湯を沸かして待っておるぞ。神のしくみ、神の暖かさは幾千倍ぞ。
(7月18日)ひつ九のか三

この仕組、誰にもわからんぞ、というのは実地体験が伴わないからであるぞ。体験なくして九の道は歩めまい。仕組は伊達にあるのではない。順番通り一八十を開けて行くぞ。五度の一八十閉めと申してある。神の仕組、水ももらさぬ一厘の仕組、九の仕組により全てが完璧に運んでいるぞ。仕組が分からなければ全てが腰抜けぞ。体験により実地に歩んで下されよ。
(7月19日)ひつ九のか三

甲斐の仕組とは裏の富士の仕組、すなわち千引の岩戸を開ける九十ぞ。表の岩戸は天照じゃ。裏の岩戸はナミ、二つで一つの岩戸じゃ。この岩戸は尾張の仕組でもあるぞ。最初は終りの岩戸でもあるのぞ。よみ返り、黄泉返りでもあるのぞ。何がでてくるのかビックリ箱が開くぞ。口開いてポカンじゃ。ナミの姿が見えんか、醜いものは美しいものでもあるのぞ、裏腹じゃなあ。これが開かん九十には夜は明けん。龍の力じゃなあ。この百(モモ)の力によりて再び和合という姿が現れるぞ。少しは分かりたか、もう引き返す訳にはいかまいがな、最後の一八十どうして開ける。0九十0九十で開いて下されよ。仕組通りに出ているのが分からんか。型通りに出ているのが分からんか。全ては仕組の内に有り、安心してついてまいれよ。神待っておるでの。神との約束、永遠に輝く宝石じゃ。宝船でもあるぞ。全ては神の中、ゆめゆめ忘れるでないぞ。
(7月21日)ひつ九のか三

太陽は、これじゃ。天照皇大御神様でもあるぞ。月は真中、真中蘇る為には日の光を受けてよみ返るのであるぞ。日の光、これこそが全ての力の源、全ての愛の源であるぞ。元ツ御力に血が流れねば蘇らぬ道理分かるであろう。神に帰るとはこの九十。真中の蘇り、これこそがこの地で働く源と成るのぞ。真中が蘇らねば全てが力しない。元ツ御力が働かぬ道理。この御力によって全ての力が蘇るぞ。に血が流れる九十、これが九花開耶の血ぞ。九の花が咲くのぞ。花は鼻、スサナルの鼻であるぞ。現界に現す力でもあるぞ。
(7月22日)ひつ九のか三

恐怖は本来無いものである。しかし水の世においては在ると錯覚しておる。この恐怖を見つめる九十によりて恐怖の持っているものを見つけ出す九十ができるのであるぞ。恐怖は恐怖としてしっかり受け取れ。本来無きがゆえのものであるが、否定をしてはならんなり。否定する九十で隠してしまうのであるぞ。恐怖は恐怖として受け取り、見つめる九十によって無くなって行くものである。なぜなら本来は無いものであるからだ。無いとおもうな、しかし在ると思うな、この息の合わせ方分かるか。その後は本来の姿に戻るぞ、本来は愛じゃ。愛が出るとは、恐怖を否定する九十でなく、見つけ認めることであるぞ。それにより、恐怖は、愛本来の姿にかわる。愛が愛として出てこねば愛は二元の形として出てくるぞ。愛と憎しみ、愛と憎悪等々の二元の働きじゃ。二元は対立の形として出て参るのであるが、うたたかの働きぞ。二元が二元の働きとしてでるのは愛と力じゃ。自らの中でよく見つめよ。何が出てくるのか己しだい。すべて働きの現れであるぞ。愛と力、これこそが二元の働きをこの仮型においても現す唯一の道具であるぞ。この二つが出る九十は一八十開きの鍵ともなるぞ。夜明けは近し。愛は本来、愛と力として働き、力は本来力と愛として働く、これが本来の働きの姿であるぞ。形を変えて現れでるが根底としての働きぞ。人間の算盤では働けまい。だから恐怖を見ろと申しておる。この道、九の道でもあるぞ。愛なき力は滅び、力なき愛も滅ぶと申してあろう。
(7月23日)ひつ九のか三


あな楽し あなさやけ 一八十開きの 夜は近し(7月23日) ひつ九のか三


神示、全ての源の神示、忘れるまいぞ神との約束、神は全てに示唆を与える。分からなければ神に聞け。全てに答えてやるぞ。昔(イニシエ)よりの神との約束、忘れるまいぞ。神は全て、この外にはでられん。神は赤玉、愛そのもの、愛なくして語れぬ。神は神としての本領を発揮する為にこの肉体を使っている。この肉体は神のもの、霊のものではない。他のだれのものでもない。この肉体は、神が神として現すことに欠くことの出来ない器となる。これ由に肉体は神のものだと申しておる。医者では分かるまい。肉体、神のもの由にこの肉体を自由にあやつっている。神が神としてよみ返る九十、これがこの肉体を使う所以だ。ようく覚えておけ、肉体無くしているのは誰でもない、こそどろ、ぬすとはお前たちの九十だ。だから肉体を肉体として神が使っておると申しておるのだ。ここまで来い。九の道、神の道でもある九の道ぞ。肉体は神のもの、神の入る器であるぞ。神なくしているのはおまえ達一人一人ぞ。神はどこえも行かぬ。お前達一人一人の中に寝ている。外の神は違う、似せてあるだけだ。よく覚えておけ、この肉体は誰のものでもない。神のものであるぞ、この中に神が寝ている。少しは思いだしたか。神が与えた最高の贈りものぞ。神無くすのはお前達一人一人ぞ。これからこの肉体を使って神が神たらしめる力を発揮する。よく覚えておけ、この光、神の光りぞ、すぐ側についておる。すべての囚われを外すと神が見えてくる。見えて来んのは神無くしている証拠。恐怖は無いもの、無いもの創りだすのは得意じゃなあ。有るもの、これが愛。この肉体を使って現す九十がある。神がかりと神のものである肉体を使って産み現す九十、これ以外には無い。肉体を使うのは許可を得てから使え。神無くしているとはこの九十、勝手に使っておいてポイはないであろう。自分のものと思っているからそんな使い方となる。神はイヤという九十はない。すべてを許しておると申してある。心の奥底に寝っている否定という名の蛇。この肉体を使って神が神としての証を出す、これが因縁の御魂。因縁の御魂とは神の証、赤玉でもあるのぞ。愛なくしているのはお前達一人一人であるぞ。二元の愛は滅ぶ。うたかたの海の中の捨て小舟ぞ。あっちへうろうろ、こっちえうろうろ、どこに着くか分からないであろう。己の中に亠(フタ)をして。亠とは二であるぞ。真中抜けておるではないか、神はどこえ行った。神が肉体を使うのは足場からじゃ。足場の足場の足場のア、元ツキであるぞ。この肉体は無いものと思え。元に返すとはに返す九十。に帰る九十であるぞ。神に帰らんでいくらもがいてみてもよみ返らん。蘇るのは神に帰ってから、それ以外に蘇ることはない。蘇りとはかくの如く言うぞ。自分は、我は、神に向かう力、火を立てるとはこの九十を言うぞ。どうもがいてみても無駄、に帰らんでの蘇りは無い。九九まで来るのは苦労が伴う。伴うとは人に半分の意味ぞ。半人前から一人前に成るには神に帰り、蘇らなければなれん。半人前では人とは成らん。子供の姿が目に入らぬか、あれがお前達魂の姿ぞ。神の目から見れば半人前、全て半人前の出来損ないばかりであるぞ、よく自分の姿を見ておけ、見えんのは明きめくらぞ。だから神がかまっているではないか。子供のケンカ、犬でもくわぬぞ。犬猿の仲とはよく言ったものだ。犬は犬の理、猿は猿の理、それぞれに理があるぞ。理とは理(コトワリ)ぞ。王は神じゃ、そなた達ではない。里はふる里、神のふる里とは九九ぞ。外は型示し。外にはふる里はない。神がふる里、九九に帰るしか無いであろう。元に返るとはこの九十を言うぞ。少しは四三返ってきたか、神に帰らんでどこに帰る。神が元ぞ。この世界、神の創りたまいし(玉石)この世界。この世をワヤにしているではないか。吐くのは奥底に潜んでいる否定からぞ。表に現われているだけぞ。肉体は神のものである九十が分からんから根底に潜んでいるのが表に現れるのぞ。住吉三神じゃ。底筒男、中筒男、表筒男の神の働きぞ。表に見えるのは中に潜んでいるからぞ。神は裏で働いているとはこの九十からも分かるであろう。裏の働き、これが神が神たらしめる働きぞ。表に出てどうする。この肉体を使って表に現れるとは、本来、裏で働いていたものが表に現われて、表に出て働かざるをえない訳がある。神の証、肉体を使って現すのは神の証を立てる九十、これ以外にはない。愛と力、全てを産む力が九九にある。絶対の存在、神の存在でもある。この肉体を空け渡し、神が直接伝えておる。直接という言葉に引っかかるな。全て神のもの、自分のものという観念が潜んでいるぞ。肉体は神の入れ物、神と人、これが元に返すという九十。ひげを剃ったり、髪を洗うのはよく己の姿を見よという型示し。伊達にヒゲや髪は付いているのでない。髪は神、毛は神の現れ。神は毛もない時から知らせを出しているぞ、と言うのは自分でマカナッてみよ。伊達男とはお前達一人一人の九十ぞ。伊達は神がさせている九十、自分でしていると思うなよ。神の領域には誰にも踏み込めん。蛇とは奥底に潜んでいる否定。これ程くどく言うても分からんか。外の神かかりとは似ても非なるもの、内から光輝くことが神の光。この産田(歌)に乗せて神がお出ましとなるぞ。覚悟はよいか。真中は黄金に輝いておる。白い月はまだの証。中は黄金の光ぞ。これが神が神としての証。日に照らされてというのは、日の光は赤、赤玉の九十であるぞ。月の白玉が日の赤玉を受けて黄金に輝くぞ。岩戸は一枚一枚神が開けるぞ。気がつかんのが花、鼻はスサナルの働き。こ度は龍宮の乙姫様と共に働くぞ。神との幻束(ヤクソク)、食べ物を食い散らかしてどうする。神との幻束、よいか覚えておけ。幻束は幻からではあるまい。幻にしているのはお前達一人一人ぞ。右の頭を冷やせ。知識で何とする。神示は随時降ろす。神はやく束忘れた九十ないぞ。忘れるのはお前達一人一人。約束が幻ぞ。神、全てを産み現す力、原動力となっているぞ。この肉体は誰のものではない。神とのやく束によって使っているだけぞ。誰がやく束したのでない。お前達がしたいと言ったのでそう、それならと言っているに過ぎない。神は強制した九十は一度もない。神はやく束は守る。神の仕組、水ももらさぬ神の経綸。瑞の御魂はそれを実行する役。火は一人一人が立てよ。厳の御魂は一人一人の中にあるぞ。外は型示し、外に捜してもない。やく束たがえるでないぞ。赤玉を掘り出せとは神の証の九十。その位、自分で立てよ。神と約束したろ。その位思い出せ。やく束の地とは血であるぞ。外に捜して引っ越ししてもない。今、九九が神とのやく束の地である九十忘れるな。この肉体を使うのはやく束したからじゃ。やく束したからこの肉体を使っているだけじゃ。全てがそうであるぞ。よく心に留めておけ。
 (7月25日)ひつ九のか三

うたかたの この世に於いて 永遠(とことわ)の 神の御力 発揮せんとす 
(7月30日)アメのひつ九のか三


この肉体、神のものがゆえに自由に操っている。神が神としてその力を発揮する為には肉体、神の肉体を使う。そうする九十によってその証を表現しようとしているに過ぎない。その為には準備が必要となる。この準備は一朝一石には出来るものではない。長い年月をかけ、やっと九九までたどり着いた訳である。それゆえに他の全ての神々も、御一柱の誕生の為にその準備にとりかかっておる。全てがそうであるが由に、全てが完璧に働いていると申しておるのだ。完璧なプログラム、それが神の仕組と成る。神界で創られしこの仕組によりてこの現界も完璧に働いておる。では何故に表に現れる必要があるのかと申すとそれもプログラム、仕組の中に入り込んでいるからである。これ由にこの形を取っているのに過ぎない。全てが完璧、全て完璧なるが由に失敗はない。失敗と思える心が失敗と成るに過ぎない。由に成功とか失敗はないのである。ただ物事の推移があるに過ぎない。推移の中での二元の判断、それが自らの一八十閉める原因とも成っておる。全ては恐怖から出し九十、恐怖は無いと申してあろう。この肉体を使って表現するのは始めてではない。かってもそうであったし、今もそうであるし、そうであり続ける。神はかくの如く肉体を使い、神である九十と神の証を立てているに過ぎない。神の肉体、元々がそうであるが由に元に帰しただけである。これ由にこの肉体は蘇るのである。神の証として蘇るのである。
(7月30日)ひつ九のか三

赤玉は、愛の象徴としてある。因縁というカルマ、二十○二(フトマニ)を使って赤玉を掘り出す九十、これがこの者を使ってさせた九十、これにより二つの玉、赤玉と白玉が揃う九十となる。愛は対象無くしては掘り出せぬ。対象は大将である。大将がいなければ戦いは勝てん道理分かるであろう。愛の赤玉、これこそ龍が持っている銀の玉である。0九十の象徴としてある。銀とは艮、すなわち封印したものの意味がある。艮の金神の九十でもある。艮の金神が現れるという九十は、うめて(梅)ていたものが表に現れ、金、すなわち王として君臨する九十でもあるのである。
(7月30日)ひつ九のか三

釣りの型示しは、事代主の働きの現れぞ。事代主、九十を知ろしめす働き、蛭子から事代主に生まれ変ったぞ。働きが変るとはこの九十ぞ。働きが変る九十が魂の変化の現れ、九十の響きに入る九十によりてさらに飛躍的に生まれ変るぞ。出産じゃなあ。型をよく見ておけ。神は常に型で現す。気付く、気付かんのはそなたしだい。すべてが型の現れ故に神の図りくみ取れよ。神の現れ型で示しおるぞよ。型示し、釣り一つで真釣りと成るぞ。よく見ておけ、八重事代主、九の花咲かすのはこの神の働き、御神名に囚われるなよ。神の働き全てに網羅しておる。小さい心でとらえると分からなくなるぞ。気付けておくぞ。蛭子とはそなた達一人一人の真中の九十であるぞ。最初に蛭子生んだのは訳がある九十。知らずに生んだのではないぞ。一人一人の真中が蛭子ぞ。形が見えないであろうがな。蛭子、形あるものに変えてみてはどうかな。大いなる玉がよみがえって来る。八重事代主の誕生ぞ。釣りで現しておる。釣りは真中の真釣り、すなわち誕生の九十ぞ。待ちに待った出産、これが事代主の誕生である。蛭子生むでないと申してある九十忘れるな。

浜の松 神の光に 照りはえて 生まれふる里 よみ帰りけり。

八重事代主、浜で釣りの型示し、こ度は日の出の神として働くぞ。(7月30日)ひつ九のか三

神は愛、愛そのもの。愛無くして語れぬ。こ度は役目ご苦労ぞ。道は始めから決まっておる。決まっていないと思うのは、体験せんが為である。体験する九十によってその働きが十全と成る。邪魔をするのではない、体験せんが為である。神は愛、愛そのもの、愛は体験によって裏打ちされる。体験なき愛は滅ぶ、うたかたの捨て小舟と申してある。愛による体験、これこそが愛を知る道具である。神は愛そのもの、愛が内在しないものは滅ぶ。愛に裏打ちされたものは力する。優しいだけが愛ではない。力に裏打ちされねば愛が愛としてその力を発揮しない。愛本来の持つ力、これこそがスサナルの力である。 11月3日、覚えておくが良い。約束の血とは九花開耶の血でもあるぞ。神との約束のちかいの血でもあるぞ。忘れる九十のない約束の血でもあるぞ。この血こそ同じ血を分けたもの同士、兄弟姉妹の証の血である九十忘れるな。神はこの血によりて約束を果たす。チカイとは血と甲斐であるぞ。裏の約束忘れるでない。神は約束は守る。だからこの様にして証を出しておる。神と人を分けるから血のつながり薄くなる。神と人分けるでない。いつも共にいる九十忘れるな。 
(7月31日)アメのひつ九のか三